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ラグーザ・玉―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(5)

ページID:0058304 更新日:2025年3月18日更新 印刷ページ表示

水彩画ラグーザ・玉(1861年~1939年)

ヴィンツェンツィオ・ラグーザとの出会い

 ラグーザ・玉(たま)は、1861(文久元)年に江戸の芝新堀で、父・清原定吉、母・兼の二女として生まれました。玉は幼い頃から絵を描くことが大好きな活発で利発な少女で、小林栄洲から日本画を本格的に習い、12歳で「栄寿」の画号を受けています。大勢の弟子の中で一人だけ名前をもらえたのは、余程腕がよく才能にあふれていたからでしょう。

 工部美術学校教授のヴィンツェンツィオ・ラグーザと偶然出会い、教えに従って洋画の練習に励み、イタリア語とフランス語の指導も受けました。玉はラグーザを敬い、銅像のモデルにもなりました。

イタリアで絵を教え、描き続ける

 玉は、ラグーザが創立する予定の工芸学校で水彩画と蒔絵の教師になる契約を交わして、姉夫婦と共に1882年にイタリアのシシリー島パレルモへ渡りました。1884年にラグーザは工芸学校を創立し、玉と姉夫婦は指導を受け持ちました。学校は政府に業績を認められて公立に昇格し、パレルモ市立工芸美術学校、後には高等美術工芸学校となりました。

 姉夫婦は8年で日本に帰国しましたが、玉はイタリアに残り、ラグーザと正式に結婚してイタリア人になりました。玉は結婚後も絵を描き続け、国際的な賞も取って日本国外で有名になりました。1927年にラグーザが亡くなって、玉は日本に帰国しようとローマの日本大使館に行きましたが、日本人ではないと相手にしてもらえず、イタリアに骨を埋める決心をし、絵の指導を続けました。

 1931年に大阪毎日新聞と東京日日新聞に「ラグーザお玉」と題するノンフィクション小説が連載され、日本でも玉の名前が知られるようになりました。そんな中、甥が玉を気にかけ、娘の初枝をイタリアに留学させました。玉はイタリアに渡って52年目の1933年に初枝と一緒に日本に帰り、その後は日本で絵を描き続けました。晩年を日本で過ごし、1939(昭和14)年に脳溢血(のういっけつ)で倒れて翌朝、78歳で亡くなりました。

玉の向上心や向学心に感心

 私は、明治時代に外国人を恐れずに、新しい画法を学び語学を身に付けようと努力した玉の向上心、向学心に感心しました。また当時の欧州への道のりは長旅で大変だったことでしょうが、はるばると見知らぬシシリー島に行き、美術に人生をかけた情熱と、ラグーザへの一途な気持ちに心を打たれました。日本大使館の玉への対応には怒りを感じ、玉がどんなに衝撃を受け落胆したか想像するだけで胸が痛みます。

 そして、日本の美術を愛し、収集した美術品を散逸させないために低額でも博物館に譲って、学校設立やコレラ患者の救済のための資金を作ったラグーザにも感動しました。玉とラグーザの、お互いを選んだ人を見る目の確かさにも感心し、「私にもこのような人間を見抜く目が備わっていたら良かったのに」と羨ましい気持ちで一杯です。

 

参照:『らいてう(六)』らいてうの会編・発行、『ラグーザお玉自叙伝』木村毅編・恒文社発行、『ラグーザ・玉 女流洋画家第一号の生涯』加地悦子著・日本放送出版協会発行、『異郷に咲いたなでしこの花』中尾明著・PHP研究所発行

(I.K)

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