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松本英子―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(5)

ページID:0058333 更新日:2025年3月18日更新 印刷ページ表示

新聞松本英子(1866年~1928年)

女性ジャーナリストの先駆者

 松本英子(まつもと えいこ)は1866(慶応2)年、現在の千葉県木更津市で父・松本貞樹と母・ふさの間に生まれました。父は農家に生まれましたが学問を好み、上京して漢学を学び、塾を開きました。母は行儀見習いとして江戸に出て大名に仕え、和歌の才能を認められた人です。

 英子は女性ジャーナリストの先駆者で、行動力がある人です。その源には世界に羽ばたいてほしいという、父の娘に託した夢がありました。父は英子が2歳になると文字を教え、厳しく教育しました。西洋の学問を学ばせるため、1875年に一家で上京し、友人の津田仙(※1)の家に身を寄せました。

 英子は仙が設立した三田救世学校に1874年に入学し、宣教師から本場の英語を学びました。1886年に入学した東京高等師範学校女子部では、全ての授業が英語で行われたため、優秀だった英子は生徒でありながら助教師として通訳をつとめました。

大きな反響を呼んだ足尾鉱毒事件の連載

 1892年に26歳で結婚。しかし、1897年に夫や子どもと破産が原因で別れることになります。1898年、華族女学校に勤めますが、翌年に退職して毎日新聞社に入社しました。英子が足尾鉱毒事件について59回にわたって連載した「鉱毒地の惨状」には被害地の惨状や被害者の無残な姿が描き出され、大きな反響を呼びましたが、権力側の圧迫も強まりました。

単身でアメリカへ

 1902年に新聞記者を辞め、アメリカ合衆国(アメリカ)へ単身で渡航します。日本の社会に生きづらさを感じたであろう英子の決断に憧れを感じます。英子はシカゴの新聞に日本人論を投稿し、着物姿で講演を行ったといいます。アメリカ社会に順応する速さ、行動力には驚かされます。

 1906年に保険業を営む永井元(げん)とサンフランシスコで結婚しました。英子は、3つの大学で学び続け、1912年にパシフィック大学を卒業しました。当時、日本人女性がアメリカの大学を卒業するということはすごいことでした。

 英子はビジネスにも才能を発揮しました。夫の事業に協力し、1913年にニューヨーク生命保険会社のカリフォルニア州の日本人代理人として初の「20万ドルクラブ員」(※2)となります。第一次世界大戦が始まると、英子は非戦について書こうと決意し、日本人向け日本語日刊紙に詩や文などを掲載しました。

 英子は、1928(昭和3)年にサンフランシスコで62歳で亡くなりました。明治時代に女性が筆で身を立てることは大変なことだったと思います。多くの困難を乗り越えアメリカに渡った英子の後半生は、いきいきと輝いてみえます。一分一秒も無駄にせず自分の力を高めることに努め、学び、書き、行動し続けた彼女の生き方に心を動かされました。

 

※1 津田仙・・・西洋農学の普及、女子教育の発展に貢献した。次女は津田梅子。

※2 20万ドルクラブ員・・・一年間の募集契約額20万ドル以上を達成した保険代理人。本社での表彰の他、アメリカ各地に家族で招待され、最高の接待を受ける。

参照:『らいてう(十九)』らいてうの会編集・発行、『松本英子の生涯』府馬清著・昭和図書出版発行、『永井ゑい子詩文』永井元編・大空社発行、『あまつましみづ―異能の改革者永井英子の生涯』永田圭介著・教文館発行、『女のくせに―草分けの女性新聞記者たち』江刺昭子著・文化出版局発行、『女人風土記 房総の女』荒井愛子著・昭和図書出版発行、『千葉県女性人名辞典』新羅愛子著・青史社発行

(Y.S)

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