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杉本鉞子―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(5)

ページID:0058334 更新日:2025年3月18日更新 印刷ページ表示

挿絵杉本鉞子(1872年~1950年)

結婚のためアメリカへ

 杉本鉞子(すぎもと えつこ)は現在の新潟県長岡市で、1872(明治5)年、長岡藩の家老だった父・稲垣平助と母・金の間に二男八女の六女として生まれました。鉞子は、親の方針に従い、幼いころから生け花やお茶などと共に、中国の古典などの難しい書物も学び、教養を深めていきました。

 父が亡くなり、1886年にアメリカ合衆国(アメリカ)から帰国した兄の意見に従い、アメリカで商売をしている杉本松雄と婚約することが決まりました。英語を学ぶために上京して華族女学校に通った後、海岸女学校で2年間、東洋英和女学校(※1)で4年間、宣教師から様々な教科を英語で学びました。小学校の准教員として奉仕活動をした後、1898年にアメリカに渡り、松雄と結婚しました。翌年に長女が、5年後には次女が生まれました。

夫の急死の知らせが届く

 日露戦争により親日感情に陰りが見え始め、夫の店も傾き、立て直しに大変な状況だったことから、1908年に鉞子と娘たちは日本へ帰国することになります。1910年には夫の急死の知らせが届き、その後は、機関誌の英文欄編集や、女学校の英語教師をして暮らしを立てていきました。鉞子の家族や、アメリカで力になってくれたウイルソン家(※2)のフローレンスも来日して支えてくれました。

 娘たちはアメリカへの郷愁を抱えており、鉞子は娘たちの成長につれて教育について悩むようになります。当時、夫を亡くした妻には子どもの養育権はなく、娘たちの将来を考えた鉞子は、勇気を出して親族会議で再渡米を願い出ました。

『武士の娘』がアメリカでベストセラーに

 1916年に娘たちやフローレンスとアメリカに渡った鉞子は、日本についてのエッセイなどを投稿し続け、次第に文筆家として認められていきました。1925年に出版された『武士の娘』はアメリカでベストセラーとなり、その後多くの言語に翻訳されました。鉞子は文筆活動をしながら、コロンビア大学で初の日本人女性講師にもなりました。

 1927年に日本へ帰国した鉞子は、『成金の娘』、『農夫の娘』など、次々に本を出しました。『武士の娘』は、第二次世界大戦中の1943年にようやく日本でも出版されました。戦後、がんを患い、1950(昭和25)年に78歳で娘の家で波乱に富んだ人生の幕を下ろしました。

 長岡で生まれ育ち、東京で新しい教育に触れ、教師の仕事もこなし、未知の国に渡って結婚、子育て、夫亡きあとはさらに大変な時代の嵐に見舞われながらも誇りを見失うことなく生き抜いた鉞子に、私は時代を超えて深い尊敬の念を抱かずにはいられません。芯の通った彼女の生き方は、国や民族、文化が違ってもお互いに尊敬しあうことの可能性を未来に向けて伝えてくれているようです。

 

※1 東洋英和女学校・・・海岸女学校の上級生が進学した。現在の青山学院。

※2 ウイルソン家・・・ウイルソン大統領の一族で、アメリカでの鉞子の受け入れ先。当主夫妻は親日家で松雄の顧客。

参照:『らいてう(十九)』らいてうの会編・発行、『海を渡ったサムライの娘 杉本鉞子』多田建次著・玉川大学出版部発行、『武士の娘』杉本鉞子著・筑摩書房発行、『武士の娘―日米の架け橋となった鉞子とフローレンス』内田義雄著・講談社発行、『今を生きる「武士の娘」 鉞子へのファンレター』星野知子編著・講談社発行

(O.M)

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