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クーデンホーフ・光子―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(5)
クーデンホーフ・光子(1874年~1941年)
父に決められたハインリッヒとの結婚
クーデンホーフ・光子(みつこ)は、1874(明治7)年に東京で父・青山喜八と母・津禰(つね)の三女として生まれました。父は骨董商でした。光子は尋常小学校も修了せずに芝の会員制料亭である紅葉館に奉公に出ました。退職後は家事や家業を手伝い、1892年にオーストリア・ハンガリーの外交官だったハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵と結婚しました。
国際結婚には華やかなイメージがあります。でも、明治時代はどうだったでしょう。光子の三女によると、ハインリッヒとの結婚は父親の命令によるもので、拒むことのできないことでした。光子は日本で2人の男の子を出産しました。そして、1896年にハインリッヒの帰国に伴い、2人の息子、2人の日本人乳母、夫の従僕と一緒に日本を出発しました。3年の予定の渡航でした。
新しい環境に慣れる努力を全力で
配偶者の家族や親戚との付き合いに一つも葛藤のない人は珍しいと思います。さらに光子の場合は言葉や慣習の違う国での新しい生活でしたが、夫の親戚の中に信頼する人たちが何人もできました。そのような関係になれたのは、光子が渡欧前にカソリック教徒になり、宗教、語学、一般常識、乗馬などを学び、全力で新しい環境に慣れる努力をしたということも大きかったのではないかと思います。
夫の領地であるオーストリア・ハンガリーのロンスペルクへ来て間もなく、光子は第三子を妊娠します。同じ頃、領地の経営を任せていた支配人の不正が発覚し、光子と夫はロンスペルクにとどまらざるを得なくなりました。帰国の見通しが立たなくなったことから、光子は2人の乳母を日本へ帰し、異国でただ一人の日本人としての生活が始まりました。
7人の子どもたちを一人で育てる
光子はロンスペルクで3人の女の子、2人の男の子を出産し7人の子の母になりました。しかし、異国での生活、子育て、すべてにおいて頼りだった夫が1906年に46歳で急逝します。光子は信頼する夫の親戚たちの助けもあったでしょうが、一人で子どもたちを育てることになりました。後年の長男からの手紙に、光子が使用人や子どもたちを独断的に思うままに扱っているという表現がありますが、子どもたちをしっかり育てなければという強い思いがあったのだと思います。子どもたちは優秀に育ち、3人が博士号を取り、2人は作家になりました。二男は、EUが掲げる理念の礎となった運動である、パン・ヨーロッパ・ユニオンの創立者です。
当時、外国はどのようなところなのかもわからない遠い場所でした。しかも自ら望んで国際結婚し渡欧したわけではありません。しかし、光子は与えられた環境の中で努力し、自分が果たすべきことを精一杯成し遂げました。その強い意志に魅せられます。
参照:『らいてう(四)』らいてうの会編集・発行、『ミツコと七人の子供たち』シュミット村木眞寿美著・講談社発行
(M.W)