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川合小梅―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(6)

ページID:0076598 更新日:2026年3月31日更新 印刷ページ表示

梅川合小梅(1804年~1889年)​

学びが好きで付き合いを大事にした

 川合小梅(かわいこうめ)は、1804(文化元)年に紀州藩(和歌山県)の藩校「学習館」助教だった父・川合鼎(あがた)と母・辰子の間に生まれました。父は小梅が5歳の時に亡くなり、祖父と母に育てられました。

 祖父は紀州藩士の子である豹蔵を娘婿にすることを決め、小梅は16歳の時に26歳だった豹蔵と結婚しました。豹蔵は学習館の教師となり、1857年から10年間、校長を勤めました。1833年には一人息子である雄輔が産まれました。

 小梅は漢学を祖父から、和歌を母から学びました。また絵を画師・松亭から学んだ後、藩のお抱え絵師の野際白雪(のぎわはくせき)に師事しました。

 学習館校長の妻として、藩の教育を側面から助け、絵を描き、家事にいそしみ、夫の同僚や弟子たちとも親しく交流しました。集まりには小梅の料理と酒が欠かせませんでした。

天気に生活ごと、社会情勢まで日記に綴る

 小梅は何か事があると筆をとらずにいられなかったようで、若い頃から晩年まで日記を綴りました。日記には毎日の天気と、幕末の日々の暮らしや政治状況、明治維新後の新たな生活や社会状況が記されています。「ヨイジャナイカ」(※1)など社会情勢のこと、川原での洗濯など家事のこと、お参りや植え疱瘡(※2)など育児のこと、潮干狩りや和歌祭など娯楽のこと、当時町中でうわさされていた将軍や町民生活の逸話など日常生活の様々な場面を綴っています。

 忙しい中、求めに応じて絵も描き、79歳の時には「内国絵画共進会」に2枚の絵を出品しました。1871年に夫が亡くなった後も、雄輔の家族や親族と和やかな日々を過ごし、絵の才能を頼りにされ、晩年まで活躍しました。

 1889(明治22)年に86歳で亡くなった小梅の生涯は、忙しくも充実した豊かなものだったと思います。小梅は女だからといって、政治や社会の動きが「分からない」と引きさがらず、積極的に吸収し書き綴りました。同時に、生活人としての武家の主婦の目から見たことも淡々と綴りました。小梅が16歳から書いた日記の約3分の1にあたるものが『小梅日記』として発刊され、原本は郷土資料として保存するため、1972年に和歌山県立図書館に寄贈されました。現在でも和歌山の人々に講演や絵本で小梅のことが伝えられ、日記が受け継がれていることが素晴らしいと驚き、感動を覚えました。

 

(※1) ヨイジャナイカ(ええじゃないか)…1867年に日本各地で起こった庶民が踊り歩く騒動。
(※2) 植え疱瘡・・・1849年に緒方洪庵が天然痘(疱瘡)の予防のために広めた牛痘ワクチン。

参照:『らいてう(十一)』らいてうの会編・発行、『小梅日記1』『小梅日記2』『小梅日記3』川合小梅著・志賀裕春・村田静子校訂・平凡社発行、『小梅さんの日記』小梅日記を楽しむ会発行、『川合小梅の作品と画業』近藤壮著・小梅日記を楽しむ会発行、『「KOUME’S WORLD」出版記念講演録 女流画家 川合小梅の世界』サイモン・パートナー著・小梅日記を楽しむ会発行

(M.F)

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