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江馬細香―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(6)
江馬細香(1787年~1861年)
細香のおいたち
江馬細香(えまさいこう)は、1787(天明7)年に美濃(岐阜県)で、大垣藩医だった父・江馬蘭斎(らんさい)と母・乃宇の長女として生まれました。本名は多保。細香が3歳の時に、兄と母が亡くなりました。幼い頃から、父に漢詩・書・水墨画などを学びました。
もともと漢方医だった父は、江戸に出向いて杉田玄白と前野良沢に蘭学を学び、美濃蘭学の礎を築くことになります。当時、多くの地方の知識人が、生業の傍ら漢学や国学を学び、漢詩・俳句を詠んでいました。同好の士と交流し、文人を自宅に招いて話を聞くことがよくありました。
江戸で蘭学を学んだ父は、大垣へ戻ると、蘭学の語学書の序文を書きました。その清書を担当したのが、まだ11歳の細香でした。18歳の時に、妹が婿養子を迎えたので、自分は一生独り身を貫いて好きな詩画の道に精進する、と決意します。
頼山陽との出会い
1813年、27歳のときに、美濃地方を巡り歩いていた歴史家で詩人、文人の頼山陽(らいさんよう)が江馬家を訪問します。細香と出会った山陽は、その才能に驚きひかれて求婚しますが、父の反対にあい、二人が結ばれることはありませんでした。その後、二人は師と弟子という関係を保ち、細香は多くの漢詩を作っては送り、指導を受けました。
細香はたびたび京へのぼり、山陽だけではなく彼の門下生たちと交わって世界を広げていきました。地元での名声は次第に高くなっていき、詩会を毎月催したり、詩社(※1)も作ったりして、美濃での活動の輪を広げてゆきます。
円熟期の細香
年を重ね、江馬家の重鎮としての役割を果たす一方、大垣の詩壇(※2)で若い人々を教え導いていく細香は、大垣藩主やその妻たちに頼まれて墨竹を描き、源氏物語を漢詩にするなど精力的に活動を続けました。伊勢の呉服商女主人で女流詩人の富岡吟松(ぎんしょう)と交流するなど地元以外でも幅広く活躍し、1861年(万延2)年に、75歳で大往生を遂げました。
私は、江戸時代という近代日本より前の時代に女性たちがどのような活躍をしたのかという知識はほとんどない中、細香と出会いました。しかも、江戸や京都・大阪といった大都市ではなく大垣という地方で、女性が絵を描き、漢詩を作り、そのあふれる才能を惜しみなく周りに教え、同好の士と交流し合うというエネルギッシュな人生を送ったという足あとに、心底驚かされました。
細香が晩年に作った漢詩を眺めてみると、江馬家の家長として女性ながらも家を守り抜くことができた自負心が伝わってきます。また、個人としての人生を振り返った際に作ったと思われる作品には、当時当たり前と思われていた「三従の教え(幼い時は父に、成人したら夫に、老いては子に従う)」という規範から逸脱した自身を、年を重ねて解き放たれたように述懐する一文があります。江戸時代という昔の日本においても、このような女性がいたのだということが生き生きと映ってくるように感じました。
※1 詩社・・・詩人の組織した団体。
※2 詩檀・・・詩人の社会。
参照:『らいてう(十)』らいてうの会編集・発行、『江戸女流文学の発見 光ある身こそくるしき思ひなれ』門玲子著・藤原書店発行、『江馬細香―化成期の女流詩人』門玲子著・藤原書店、『江馬細香詩集「湘夢遺稿」上』門玲子著・汲古書院発行、『江馬細香詩集「湘夢遺稿」下』門玲子著・汲古書院発行
(O.M)




