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只野真葛―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(6)
只野真葛(1763年~1825年)
幼き日に抱いた思い
只野真葛(ただのまくず)は、1763(宝暦13)年、仙台藩医だった父・工藤平助と母の間に七人きょうだいの長女として江戸・築地で生まれました。本名は、あや子。「真葛」は雅号のようなもので、きょうだいを秋の七草に例えて、自分を葛になぞらえたところから生まれています。父は医師として有能であったばかりでなく、『赤蝦夷風説考』を執筆し、ロシアとの貿易を田沼意次に提案しました。母は厳格な両親から教育を受け、日常的に文章を書く、古典の教養のある人でした。
多才な父のもとに多彩な人が集う環境で、母から日本の古典や和歌の指導を受けて育ったあや子ですが、専門的な学問や知識を学ぶために必修の漢文を学ぶことは、父に禁じられました。敬愛する父ではありましたが、平助の女性観は「女は過度に学問に秀でていないほうがよい」という当時の一般的なものでした。
知の世界への関心を心の奥底に秘めていたあや子は、弟・安太郎の漢文の学習が始まった9歳の時に、「女の本」になろうと思い立ちました。女の手本になろうと考えたのです。そして、その翌年の1772年に明和の大火が起きました。工藤家は被害にあいませんでしたが、鎮火後に起きた物価高騰に、あや子は大きな衝撃を受けました。火災になった上に物価の高騰で困窮する人々に思いをはせ、人々の苦しみを救いたいという「経世済民」の思いを抱き、このことは生涯の関心事となりました。
奥女中奉公と結婚
1778年、16歳のあや子は仙台藩上屋敷の奥に奉公に上がり、10年の奥女中生活を送りました。生き方や仕事への向き合い方が自分と異なる人々の中で信念を貫くことの難しさを痛感しつつ、宮仕えの女としてできる限りの努力をしました。
その後、27歳で父が決めた人と結婚しましたが、夫は覇気のない年の離れた人で、あや子は泣いてばかりいたので実家に帰されました。実家に戻った後は、妹と母の死という大きな変化はありましたが、弟・源四郎から四書の講義を受けるなど、仲良く落ち着いた日々を送りました。
田沼意次の失墜後、衰退した工藤家のために、35歳の時に仙台藩上層の家臣だった只野伊賀と結婚することになりました。伊賀は江戸屋敷詰めの家臣だったので、あや子は伊賀と離れて住み慣れた江戸から仙台に旅立ちました。伊賀には子どもが4人いましたが、子どもたちから信頼され、よい関係だったようです。伊賀とも心を通わせた結婚でした。しかし、源四郎が1807年に亡くなり、工藤家のために自身の手で何事か成し遂げたいという強い思いがあったあや子は、仙台にまで来た意味がなくなったと感じました。
長年の思索をまとめる
源四郎の死後、女の人生とは、と長年考えてきたことを書いたものが『独考(ひとりかんがえ)』です。あや子は長年疑問に思ってきたことに対する自分の考えをまとめました。それは、当時社会的に重視されていた儒教や仏教の規範を、絶対的に正しいものとしてとらえず批判するものでした。添削と出版を依頼した曲亭馬琴から儒教批判などに対する反論があり、出版できませんでした。あや子の考えは理解されることなく、1825(文政8)年に63歳で亡くなりました。
幼い頃に抱いた「女の本になること」、また「経世済民」の思いは、生涯あや子の心にありました。女が一人の人として生き、表現するのが困難な時代に、深く思索し書き著した女性がいたことに、驚き心動かされます。「現代の女性たちには、もっとできることがあるのではないですか」とあや子に強く背中を押される気持ちになります。
参照:『らいてう(十)』らいてうの会編・発行、『只野真葛』関民子著・吉川弘文館発行
(M.W)




