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黒田土佐子―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(6)

ページID:0076604 更新日:2026年3月31日更新 印刷ページ表示

藤黒田土佐子(1682年~1758年)​​

大火による仮住まい生活を綴った『石原記』

 黒田土佐子(くろだとさこ)は1682(天和2)年、江戸で旗本の折井市左衛門正利(※1)の娘として生まれ、幼い頃に将軍綱吉の側用人だった柳沢吉保の養女となりました。14歳の時、綱吉の意向で小姓だった16歳年上の黒田直邦(なおくに)に嫁ぎました。

 1717年、小石川(文京区)から出火した大火で、常盤橋(千代田区)近くにある上屋敷が類焼し、36歳だった土佐子は3人の娘を連れて本所石原(墨田区)の下屋敷で仮住まいすることになります。下屋敷は狭く、寂しい所だったので、直邦の勧めで娘を連れて近くの神社仏閣を参詣し、親類を訪問していました。

 火事の描写から始まり、外出した日々を綴った日記が『石原記』です。『石原記』を読むと月に6日以上も外出し、夜遅くに家に帰るなどかなり自由に生活している様子が分かります。幕府の命で、江戸屋敷で暮らさなければならなかった大名夫人ではありましたが、日々を生き生きと暮らしていたことが分かります。

『言の葉草』からたどる土佐子の後半生

 1735年に直邦は70歳で亡くなり、後を継いだ婿養子が久留里城(千葉県)を再建しました。直邦は5代将軍綱吉以来、8代将軍吉宗まで50余年の長い間公務に就き、西の丸老中にまで出世しました。文武に秀で、儒学者の荻生徂徠(※2)に師事し、著書を多く残しています。土佐子にとって夫であり、父であり、師であった直邦の死は筆舌に尽くしがたい悲しみでしたが、歌を詠むことで心を慰め、『言の葉草』と名付けた日記を19年間綴っています。

 土佐子の生涯唯一の旅は、直邦7回忌の能仁寺(埼玉県飯能市)墓参でした。人々の歓迎に感動し、未亡人として黒田家を守り抜く覚悟を決めたのです。駒込にある柳沢家別荘の御霊殿をはじめ月桂寺、深川浄心寺など多くの寺に詣で、先祖の供養をすることが生きがいとなりました。

高い教養を身に着け愛情深く、孫や曽孫から慕われた土佐子

 土佐子は高い教養を身に着けた女性でした。特筆すべきは、未亡人となった後も、学者や大名と交流を続けたことです。神道学者の依田貞鎮(よださだしず)はその文才を絶賛し、子や孫たちへの熱心な教育ぶりを讃えています。会津藩主の松平容貞(まつだいらかたさだ)との交流は、彼が26歳で世を去る前まで続きました。

 また、愛情深い人だったのだと思います。娘や孫の病気や出産の際に何日も泊まり込みで世話をし、側室の子である久米子や直亨(なおゆき)も我が子同様に育てています。

 土佐子は77年の生涯で何度も大火に見舞われましたが、常に冷静に行動しています。日記に記録し、それを活かした姿勢は見習いたいものです。また、家族を引き連れて、朝鮮国使や琉球国使の行列見物に行くなど、好奇心を持ち続け、孫や曽孫からも慕われた彼女の生き方に憧れを感じます。

 

※1折井市左衛門正利(おりいいちざえもんまさとし)・・・3代将軍家光の小姓、4代将軍家綱の小姓番士を勤めた。
※2荻生徂徠(おぎゅうそらい)・・・江戸中期の儒学者。8代将軍吉宗の側近として活躍。都市の膨張を抑え、武士の土着が必要であることを説いた。

参照:『らいてう(十)』らいてうの会編集・発行、『「石原記」「言の葉草」大名夫人の日記』黒田土佐子著・柴桂子編・桂文庫発行、『江戸時代の女たち その生と愛 師弟愛・母の愛・夫婦愛・兄弟愛・秘めた愛』柴桂子著・桂文庫発行、『江戸期に生きた女表現者たち』柴桂子著・NHK出版発行、『近世の女旅日記事典』柴桂子著・東京堂出版発行、『松蔭日記』正親町町子著・上野洋三校註・岩波書店発行、『千葉県女性人名辞典』新羅愛子著・青史社発行、『朝日歴史人物事典』朝日新聞社出版発行、『千葉県史料 近世篇 久留里藩制一班 』千葉県発行、『3か月でマスターする江戸時代』NHK出版発行

(Y.S)

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