ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 企画部 > 男女共同参画センター > 原采蘋―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(6)

本文

原采蘋―コラム「私たちの心を動かした5人の女性」(6)

ページID:0077043 更新日:2026年3月31日更新 印刷ページ表示

原采蘋(1798年~1859年)ひょうたんと盃

生家と生い立ち

 原采蘋(はらさいひん)は、1798(寛政10)年に筑前(福岡県)秋月藩の儒学者だった父・原古処(こしょ)と母・雪の間に生まれました。本名は猷(みち)と言い、兄と弟がいましたが病弱で、父は跡を継がせるのは猷と決めていたようです。父から学問や詩文の教育を受け、おおらかな筆跡で漢詩を書きました。父の代理として私塾で指導し、弟子たちにも慕われました。学問を志す若者たちのあこがれの的だったようです。

 父について豊前(ぶぜん・福岡県東部と大分県の北部)、豊後(ぶんご・大分県)、中国地方などを時には母も一緒に訪れ、長崎でも父の知人や地元の人たちと交流し、大人になってからは酒を酌み交わしながら漢詩を詠みあいました。行く先々で歓待され「才媛」ともてはやされました。

父の期待を背負う​

 28歳の時には父の勧めで、漢詩で身を立てるために京都に旅立ちましたが、女性の一人旅は当時としては珍しいことでした。大柄な采蘋は、化粧をせず男装で腰には太刀を差して旅をし、道中の危険を避けていたようです。出発の時に父からは「不許無名入故城(成功するまで故郷に帰ってはならない)」と餞別の詩句を贈られました。

 京都に滞在して1年半ほど経ち、実家からの手紙で父の病状の悪化を知ると、急いで故郷に戻って母と一緒に看病しました。病床の父を囲み久しぶりに家族5人がそろいましたが、まもなく父は亡くなってしまいました。

 父の死後は、再び旅をして各地を訪れ、漢詩仲間や学者、知人と交流しました。広島では恋愛もあったようです。江戸には20年程も留まり、房総半島に2度出かけたのをはじめ、武蔵野一帯、上野(こうづけ・群馬県)、下野(しもつけ・栃木県)、信濃(長野県)、時には奥州・松島までも各地に赴き地元の人たちと交流し、教えを請われれば快く指導したようです。母を江戸に呼び寄せたいと願い出ましたが、秋月藩から許可が下りませんでした。父の遺言に従って、父の漢詩集を出すことが目標でしたが、叶わぬまま旅先の長州・萩で一生を終えました。

束縛されない人生

 采蘋は62年の人生の大半を、柳の綿毛のように、浮草のように放浪の旅を続けました。旅姿は男装でも、自分で養蚕や機織り、着物の仕立てもでき、日頃はあでやかな容姿で漢詩壇の花形として一世を風靡したようです。当時、女性は女らしく振る舞い、結婚するのが当然という男尊女卑の風潮でしたが、そのような意見に対して詠んだ漢詩もあります。また、女の子が生まれ、采蘋の名から一字をもらいたいという人に対しては漢詩で「そのうち男の子より女の子の方が心を慰めてくれますよ」と自らの体験に基づいた意見を述べています。

 「男子徳有れば、すなわちこれ才、女子才なければ、すなわちこれ徳」と考えられた江戸時代に、男性たちと漢詩を詠み、豪快にお酒を酌み交わし、一人で旅をした采蘋は当時の女性たちに比べると、なんと自由で行動的な女性だったかと尊敬の念に堪えず、現代に生きたらもっといきいきと活躍できただろうと思います。

 

参照:『らいてう(十一)』らいてうの会編集・発行、『原采蘋評伝 楊花飛ぶ』小谷喜久江著・九夏社発行、『近世の女旅日記事典』柴桂子著・東京堂出版発行、『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社出版発行、『女だてら』諸田玲子著・角川書店、『女性漢詩人 原采蘋 詩と生涯―孝と自我の狭間で』・小谷喜久江著・笠間書院​

(I.K)

コラム「私たちの心を動かした5人の女性~江戸文芸の女性たち~」トップページへ戻る

皆さまのご意見をお聞かせください

お求めの情報が十分掲載されていましたか?
ページの構成や内容、表現は分かりやすかったですか?
この情報をすぐに見つけられましたか?