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世界最高齢のアイアンマン稲田弘さんへのインタビュー

ページID:0001296 更新日:2023年3月30日更新 印刷ページ表示

稲田弘さんの画像
稲田弘さん

 世界一過酷なトライアスロン「アイアンマンレース」。
 そのレースに挑む世界最高齢のアイアンマン稲田弘さんは、市内在住で現在88歳。

 2016年と2018年に出場したアイアンマン世界選手権大会の年代別で優勝した記録が、ギネス世界記録に認定されています。また、平成30年度には市民栄誉賞を受賞されています。

 その姿からは年齢が想像できない程、元気で若々しい稲田さん。子どもの頃、トライアスロンを始めるきっかけ、アイアンマンレースへの挑戦への経緯、普段気を付けていることなどを伺いました。

—子どもの頃、どんなお子さんでしたか?どのようなことに興味がありましたか?

 小学生くらいまではね、戦争が始まる前で、その頃まではあまり体が丈夫な方じゃなかったですね。運動とかあまりしなかったし。トンボ採りという遊びを子どもの頃やったり、みんなと外で遊ぶことはしていたけどね。

 小学校低学年で、ドッジボールというのを初めてやって、よくやったりしていました。
 高学年になって、特に戦争が始まってからは、軍事訓練を体操の時間にやっていましたね。行軍と言って、いろんな荷物を背負って、延々と歩き続けるとか、投てきと言って、手榴弾のような形をした鉄の塊を投げる練習をしていました。運動競技というものがなかったんですよ。小学校卒業してからかな、そういうのをやるようになったのは。

様々なスポーツに挑戦
 中学校に入って、まず始めたのが体操。生徒会長のキャプテンに憧れて体操部に入ってね。部には二人だけしかいませんでした。
下が砂場のところに鉄棒があって、大車輪の練習をしてたのね。そこで、2回転で着地するというのを練習した時に、2回転すると先輩が背中を叩いてくれて、それで手を離すと立てるんだけど、先輩が叩いてくれないことがあって、2回転半しちゃったの。そうしたら背中からダーンと落ちちゃって、気絶しちゃった。命に別状はなかったけど、すぐ辞めちゃった。

 その後もいろいろやりましたよ。
 陸上部にも入った。100mの選手だったけど、あまり速くなくて、いつも補欠でした。

 次は野球部にも入った。当時は背が高い方で、投てきも得意だったから、ピッチャーをやってた。
 ある時、対抗試合でバカみたいに打たれて。交代するピッチャーがいなくて。1イニングで打者が何回も回るやつ。それで記録的な惨敗を喫して、あまりにみっともなくて辞めちゃったの。

 高校に入ってからは卓球をやったり、サッカー、テニスもやったけど、長続きしない。
 大学の時ボクシング部に入った。新人戦に出場したんだけど、ゴングが鳴って、相手と手を合わせて、パッと引いている間にやられてしまって意識不明。みっともないことになってすぐ辞めちゃった。

 才能にはあまり恵まれなかったかもしれない。
 長くやったのは登山だね。下手もカッコ悪いもないしね。大学の時に登山を始めて、社会人になってからはあちこち転勤したので、山のある所では休みの日に登ったりしていた。何かやらないと駄目だという感覚はずっとあったね。

—トライアスロンを始めた時期ときっかけを教えてください。

 水泳を始めたのは、60歳でした。

 女房が難病にかかって、僕が退職する少し前から寝たきりになってしまってね。入退院を繰り返していました。出血すると止まらないので、そばに付いていないといけなかったんです。仕事を辞めちゃって、自分もじっとしていたら駄目になっちゃうと思っていた時、家の近くにジムができて。体を動かそうと思って、水も怖くなかったので、水泳を始めました。初めはあまり泳げなかったんだけど、インストラクターがレッスンしてくれる日があって、一から教えてもらい、結構泳げるようになりましたよ。千葉県国際総合水泳場で開催されるマスターズ大会に出られるようになって、だんだん速くなっていきました。これがトライアスロンへの最初の一歩だったかな。

 64歳の時、茨城県の砂沼でスイムとランのアクアスロン大会が開催されたんです。スイム1.5km、ラン10kmの大会が初めて開催されたときに水泳の仲間と一緒に面白半分で参加しました。女房には秘密でね(笑)なんとかゴールできました。

―10kmのランとのことですが、練習はしていなかったんですよね?

 そうだね、走る練習はしていなかったけど、なぜか走れちゃったのね。もちろん各地で山に登っていたからというのはあったけど。

―定年前は運動はされていたんですか?

 女房が元気な時は一緒にあちこち山登りに行っていましたね。女房の方が強くて、僕は待ってくれという感じ(笑)岩場のところなんか女房の方が速くて、どんどん行っちゃうんだよね。

―そうだったんですね!稲田さんが待ってくれということになるのは意外です!
その後の挑戦はどのような経緯を辿るんでしょうか。

 このアクアスロンの大会で完走して、スイムとランはできたという自信はついたかな。そこから5年出場したんですよ。だんだんタイムが速くなってきてね。ランの練習はしていなかったけど。
 女房が入院して、自分の時間ができてから、山に登りましたね。自然の中にいるのが好きなんですよ。気持ちが癒されるというかね。それから、どこまでいけるかみたいなことをやっていて、一日歩く時もあったから、持久力はあったかもしれないね。しぶとく何かをやることについては抵抗がなかったですね。

 69歳までその大会に出て、ロードバイクを買っちゃった。その大会の参加者の大半が、ウェアとヘルメットを被ってバイクで会場まで来ていた。それがものすごくカッコイイの!その時69歳だったし迷ったんだけど、とにかくああいう格好をしてバイクに乗ってみたくて、買っちゃった。バイクに乗ったら、風を切って走るのが気持ちいいし、楽しい。新川沿いを走っていた。

 70歳になった時、幕張でトライアスロンの大会が開催されたんですよ。それで3種目できるというので申し込んじゃった。
稲田さんの画像

――バイクを買った時点で、トライアスロンに挑戦する予定はあったんですか?

 全然(笑)とにかくバイクに乗ってみたかっただけ。
 たまたま幕張の大会が無ければトライアスロンもやっていない。
 それで、その大会で一応完走できたんです。ビリじゃなかった。その後、女房のところに報告に行って、その3か月後くらいに亡くなりました。そこから3カ月くらいは何をしていたか覚えていないんですよ。その時のことを息子から聞くと、認知症のようだったみたいです。一人住まいだし、トライアスロンをやる以外ないなと思いましたね。
 年4回ほど大会に出るようになって。こういうことで、トライアスロンにハマっちゃった。

 茨城県の潮来で開催された大会に70歳で参加しました。60歳がいなかったのね。それで特別表彰を受けたんです。立派なトロフィーをくれてね。それがうれしくてまた出ようと思ってね。歓迎パーティーに呼ばれて、紹介されたりして。へースゴイですね!!なんて言われてうれしかったですよ。

—スイムから始まり、ラン、バイクと挑戦していき、トライアスロン(オリンピック・ディスタンス:スイム1.5km、バイク40km、ラン10km)にハマったということですが、アイアンマンレース(スイム3.8km、バイク180km、ラン42.195km)という信じられないほど過酷なレースに挑戦していくことになる経緯はどのようなものだったんでしょうか。

様々なレースへの出場と進化
 74歳の時に、茨城の波崎で開催されたトライアスロン大会でオリンピックディスタンスと、少し長いミドルディスタンス(スイム2.25km、バイク80km、ラン15km)も併催されて、後者の方に面白半分で挑戦してみた。
 制限時間ギリギリで完走できたんですよ。これで行けるなということになって、次に佐渡国際トライアスロン大会でもミドルディスタンスほどのコースが設定されていて出場しました。これが調子が良くて、75歳、76歳で年代別で優勝しちゃった。

 その翌年、76歳で五島長崎国際トライアスロン大会のアイアンマンレースに初めて出場した。だんだんエスカレートしていっちゃったんだね(笑)やっちゃえーと思って出たら、見事に失敗しちゃった。甘くないですよね。
 バイクまでは良かったんだけど、残り時間5時間くらいで、ランに入ったらすぐ足がつっちゃって、だましだまし走ったんだけど、半分の地点で時間が間に合わないからということで失格になって、初めてのアイアンマンレースは挫折ということになっちゃった。

 失格になっちゃったのがショックで座ってうなだれていたら、大会の役員が来て、あなたは来年もやる気があるだろう?もしやるんだったら我流でやっていたら無理だ。千葉の稲毛に「稲毛インターナショナルトライアスロンクラブ」という、オリンピック選手も出ているクラブがあるから、行ってみたら良いとアドバイスされたんです。

 でも3カ月くらい迷った。だってさ、年寄りだからさ、オリンピック選手を養成しているようなところに僕みたいのが行っても全然駄目だと思ってたからさ。でもどうしてもやりたいと思って行ったら、会費を払ってくれればいいですって言ってくれて、入りました。コーチについて練習メニューをこなして、いろいろ教えてもらえるし、仲間もがんばれよとか言って励ましてくれるし。それでのめり込んでいっちゃった。

 精神面でもそうだけど、やっている連中の姿勢がね、僕みたいにいい加減にやっているわけじゃなくて、目標を定めてそれに向かって頑張っているんですよ。そういうのを見ると、今まで僕は何をやっていたんだ、僕も一生懸命やろうという気持ちになった。
 スピードはみんなより遅いけど、メニュー内容はこなそうと思ったね。大変だけど。何回も途中で辞めちゃったけどね(笑)でも自分自身全く変わって、精神的にも肉体的にも進化を遂げちゃった。クラブに入った時にはできなかったことが、できるようになったからね。

 で、次の大会は行けるという自信を持てた。77歳の時、長崎の大会が中止になって、その代替となる大会が知多半島の常滑で、ミドルディスタンスなんだけど、アイアンマンという名前の付いた大会が初めて開催された。同じクラブの仲間と出場しました。それに出て優勝して、ミドルディスタンスの世界選手権に出場する権利がもらえたんです。
 世界選手権はアメリカのフロリダで開催されて、2位だった。75歳以上の部で出場。帰国したらクラブでお祝いしてくれてね。だんだんやる気が出てきた。
 その年に韓国でやった世界一厳しいコースといわれる大会に出て、世界選手権の権利を取った。15時間を切っていて結構早かったから、僕を追ってくれていた撮影クルーがゴールシーンを取り逃しちゃった(笑)

初のアイアンマン世界選手権大会への出場と挫折
 ハワイで行われたアイアンマン世界選手権大会には、78歳で初めて出場しました。でも過呼吸になって失敗しちゃって。とにかくデビュー戦は失敗する。失敗するから次は絶対しない!と思うの。
 受付が5時にスタートして、レースのスタート時間の7時まで時間が空いちゃって、スイムの3.8kmは何も飲んだりできないからと思って、飲んだり、食べたりしすぎちゃったんだよね。
 スイムのスタート直前、お腹が苦しい感じがした。スタートラインでは立ち泳ぎをしていて、スタートを待つんだけど、そのラインに着くまでとても苦しかった。スタートしてから息苦しくて、ライフセーバーが僕のすぐそばでピタッとくっついて、大丈夫か?と何回も聞いてきた。おかしいなと気づいたんでしょうね。違反にならないからということでライフセーバーのボードにつかまらせてもらって、半分くらいまで何とか行けたけど、もうやめろと言われて断念した。これは惨めな気持ちになった。日本人として恥だと思った。

アイアンマン世界選手権大会へのリベンジ
 その翌年、反省が生きて、受付を済ませた後はホテルに戻って、スタート時間までゆっくり休んで、あまり飲まずにスタートを迎えた。79歳の時、2012年大会で15時間38分25秒で優勝しました。そのタイムはいまだに破られていない。前年の優勝者より1時間早かった。コースを間違ったかもしれないと思ったんだけどね。

競技に対するモチベーションが変わるキッカケとなった2015年大会
 2015年は制限時間が10分短い16時間50分になった年で、僕はゴールしたんだけど5秒間に合わず、16時間50分5秒だった。花道に入って1回こけて、ゴールの直前でまたこけて、制限時間オーバーで失格になっちゃった。

 このゴールがドラマチックだったと世界中のメディアに取り上げられてね。これがきっかけで、フェイスブックにたくさんの人からメッセージが届きました。そして大会後、多くの人から元の時間に戻すべきだという意見が大会本部に寄せられたんです。
競技に対するモチベーションが変わるキッカケとなった2015年大会の画像
 それまでは僕がアイアンマンレースに挑戦するというのは、だれにも迷惑をかけない、自分勝手にやっていたものだったのが、この年の大会を機に、自分だけでやっているということではない、応援してくれる人の期待に応えるためにやらなきゃいけないとモチベーションが180度変わっちゃったんですよ。

 倒れたときにそばで見ていた人が、僕がよろめきながらまたゴールを目指す姿を見て泣いちゃったと言っていて、来年もまた見に来るから、絶対ゴールしてくれと言われた。そうするとさ、これは絶対ゴールしないと、生きて日本に帰れないと思うくらいの気持ちになった。

多くの人の応援を力に変え、優勝した2016年大会
 翌年の2016年大会では、大会の1週間前に制限時間が10分長くなることが決まった。そのレースでは本当に死ぬかと思った、何回も。でも応援してくれる人の言葉が頭にあったから、死んでもいいと思って頑張った。それで優勝できた。死んだら、あいつは死ぬまでやったんだからって許してくれるだろうと思った。

 だから、その後の大会は、そういう人たちの言葉があったからゴールできているけど、それがなければできなかった。
 応援してくれている人たちは、僕がどこを走っているかネットで見てくれている。時差がある日本でも見てくれている。
何キロ地点を通過したということがわかる、それがいくら待っても通過しないとなると応援してくれている人も焦るでしょう、だから、何としても次の地点を通過するという気持ちでやっている。辛いからやめるなんて言うことは許されないでしょう。だからゴールできている。歩きたいのに歩けない、死にそうな顔していられないから、カッコよくしてないと(笑)
多くの人の応援を力に変え、優勝した2016年大会の画像

ー2015年の大会は、稲田さんの競技人生を大きく変えているんですね。たくさんの人からの応援とその人たちのためにという稲田さんの想いがレースを走り抜く力になっているんですね。

 2018年の時は、世界中から応援メッセージが殺到しました。仲間がツアーを組んで、応援に来てくれて、朝の握り飯まで作ってくれて、本当に面倒を見てくれた。自分の限界を超えた力を出させてくれた。自分だけのことなら辞めちゃう。みんなの期待に応えなきゃいけない、頑張らないと駄目だと思える。

 3回優勝させてもらっているけど、2、3回目は自分の力だけでは絶対ゴールできなかった。本当に死にそうなときは何回もあったからね。

—2016年と2018年のアイアンマン世界選手権大会記録について、ギネスの認定を受けたとき、どう感じましたか。

 僕が申請したわけではなくて、クラブの仲間が申請すべきだと言って申請してくれたんですよ。

 大会記録を証明する書類、写真を送るなど、本当に面倒な手続きをやってくれた。皆さんのお世話になっちゃった。うれしかった。サプライズのお祝いもしてくれてね。これを通じていろんな人に助けられて、いろんな意味で僕はラッキーでしたね。

—競技を継続している中で、大変であると感じることはありますか?

 本番ですね。
 練習は自分のペースでできるし、休めるし。本番は休めないし、辛いことの連続ですよ。

 80歳で優勝した時が体力的には一番充実していて、最後まで余裕でゴールしましたけど、その翌年から、体が不調になったり、体力的に厳しくなってきた。老化現象もあるし、しょうがないんだけど。
 何回も心折れるんだから。また坂を上らないといけないとか思うんだよね。内臓や体全体が痛くなる。バイクでは首が痛くなるし、指の感覚はなくなる。
 アイアンマンレースの開催地のハワイは最大瞬間風速は60mくらいになることもある。朝は海から山に、夕方は山から海に風が吹く。時速100kmくらい出て、8mくらい吹っ飛んでしまった人もいる。僕はスピード出せないから大丈夫だけど。

—日々のトレーニングスケジュールを教えてください。

 スイムの練習は、週4日朝の6時から7時半までやっています。クラブの練習がない日は、家の近くのプールにも行くので、毎日泳いでいます。朝が苦手なので、クラブの練習には遅刻していきます(笑)

 バイクは、週4日で練習していたんだけど、新型コロナウイルス感染症の影響で自主練になっています。みんなは8時半に出発し、100km走ってお昼くらいに帰ってくる。僕はその前に出発して、日が暮れる頃に戻ってくるような感じ。クラブがお休みの時は、妻のお墓参りを兼ねてトレーニングに行きますね。
 新川沿いもそうだけど、佐倉、成田、利根川、佐原、印西の方に行ったりして、途中でウナギを食べたりします。
 大会もないから、調子を見るためのトレーニングをしているんです。
 行ったことが無いところにも地図を見て行くこともありますね。クラブの合宿では千葉から館山まで180kmを走ります。緑の中を走って、気持ちいいんですよ。あまり車も通らなくて。美味しい水が出るところもあってね。あそこいったら、あのお店に寄ろうってやっていて顔なじみになった人もいるんです。いろんな人とも友達になって、美味しいものも食べられるし、ただ走るだけじゃなくて、そういう楽しみもあるから練習も楽しいですよ。

 ランは、クラブでの練習は、本番のようにバイクから帰ってきて、靴を履いて、本当は10~15km走るところだけど、2km走って戻ってきちゃう。冬には、山を登って戻ってくる15kmのトレイルランコースを走ることもある。
 自主練では、新川沿いのサイクリングロードで緑を楽しみながら10km程度走っていますね。大会前は佐倉の風車まで行って戻ってくるコースで、約30kmを走ります。

 雨だとバイクはスリップして危ないので休みます。その代わり、スイムと傘をさしてウォーキングをします。

―休みはないんですね!!

 そうですね、体を動かすことはとにかく毎日やっています。
 週に1回は、休みなさいと言われているんだけど、年を取ってくると、完全に休んじゃうと元に戻らない、日々そう感じるから、休めないですよ。

—普段気を付けていることがあれば教えてください。

 まず、食事ですね。
 何を食べたらいいかというのを、栄養士さんに聞いて、必要な栄養素を摂るように気を付けていますね。

 朝は野菜ばっかり摂っている。スープを2種類作って、きのことか、豚肉、鶏肉、栄養価が高い旬の野菜、ニンニク、決まったもの20種類くらい入れます。それぞれの野菜は少ないけど、種類が多くてすごいことになっています(笑)
 スープは、黒酢やトマトジュースを入れたりしたものと、すりごまや体に良いと言われるスパイスを入れたりしている。
火を入れるとビタミンCが壊れてしまうから、煮すぎないように時間を調節して調理します。

 あとは炭水化物。取り寄せたはちみつとブルーベリージャムをたっぷり付けて、ライ麦パンに付けて食べる。ツールドフランスの選手ははちみつをものすごく食べると聞いたから、僕も取り入れている。

 とにかく、朝は恐怖なんですよ。見るのも嫌なくらい(笑)作って食べるのに2時間かかるんですよ。スイムがあるときは、スープは無しで、リンゴとバナナを運動の30分前までに食べます。ゼリー状の栄養剤を摂取するときもあります。スイムが終わった後、コンビニでおにぎりとか買って食べて、バイクの練習に向かいます。
朝食の画像の画像

 夜は、玄米ご飯(お茶碗2杯)、DHAが摂れるのでメザシなどの青魚メインで、納豆、キムチ、それと豆腐、麩、山芋、エビ、貝類、ワカメを入れて、取り寄せた味噌を使った味噌汁を食べます。
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 クラブの合宿でお代わりをすると、食べすぎだと言われる。昔から食べるんだよね。最近は減ってきたけど。

 2つ目は、運動するときの自分の動きですね。
 なんとなくトレーニングしているんじゃなくて、今どこの筋肉を使っているかを常に意識してトレーニングするようにしている。そうするとバランスが取れてきて、それぞれの筋肉に係る負担のバランスが取れてきて、楽に速く足を運べるというのがあるので、どの筋肉を使うと効率が良いか考えながらトレーニングをしている。

—一つひとつの種目自体が過酷であると感じますが、それを3種目も行うトライアスロンの魅力はどのようなことでしょうか?

 今思えばだけど、3種目あることかな。得手不得手がありますから、何かで駄目でも、別の得意な種目で挽回できる。
 あとは、3種目で使う体の部位が違って、3つ合わせると全身運動になるんですよ。スイムは上半身、バイクは体幹で特に腰、ランは下半身を使うので。

—これからトライアスロンを始める方にアドバイスや一言をお願いします!

 一遍に全部やろうとしないで、一つずつ始めてみたらいいと思います。やってみたら必ずできるものだから。人によってはすぐできる人と、できるようになるまで時間がかかる人もいると思うけど。できると楽しくなってくる。継続してやってみると、ますますやれるようになってきて絶対面白くなってくるから、信じてやってみてほしいと思いますね。

—トライアスロン以外のことも含めて、これから挑戦したいことや夢を教えてください。

 次のアイアンマン世界選手権大会で記録を更新したいと思っていますね。

 あとは、自転車で世界一周して、今までお世話になった人たちにもう一回会ってお礼を言って回りたい。日本も回りたいですね。

 日本百名山の72は登ったので、あと残りの28の山に登って踏破したいと思っています。

—トライアスロン以外に好きなコトやモノがあれば教えてください。

 登山ですね。

 歌を歌うことも好きです。仕事の合間にも歌っていて、5年前くらいまでやっていたんです。
大学生の時は、プロでやってた。日本の初めての男性コーラスグループに所属していて、米軍キャンプを回ったりしていた。メンバーが亡くなったりして、5年前に辞めちゃったんだけど。

—稲田さんの存在は、同世代の方々にとって希望であり、若い世代の方々にとって大きな刺激であると感じます。皆さんへのメッセージをお願いします。

「今が青春!」と語る稲田さんの画像
「今が青春!」と語る稲田さん

 僕と同じ年代の人は、老化が進んでいて、気力・体力ともになくなってきちゃって、体を動かさなくなってきちゃうし、動かさなくて済むからね。これから先どういう人生を生きたいのかっていう希望もなくなってくる。

 それをね、このまま死んじゃっていいのかっていう人も多いと思うんですよ。そういう人だって、何かやろうと思えはできる。偉そうなことは言えないけど。こういう人生を送りたいっていう夢、希望を持たないと生きていてつまらないと思うから、やってみたかったことや昔の趣味をやってみることが大事だと思うんですよ。

 若い人もそう。何か目標を持つ。それに向かって何とか努力していくということが、生きていくことの基本だと思う。
 何のために生きているんだ、生きている意味、どういう人間になりたいかを考える、見つけること。やれることを今やるっていうことだね。年を取るとどんどんできなくなるから。そういうことが人間が生きていくうえで一番大事なことだと思う。

 やれたらいいなと思うことをなんでもやってみることですね。やればできてうれしくなる。僕は今が青春だと思っています。こんなに夢中になってやっていたことはないんですよ。

 挫折することはあるかもしれないけど、とにかくやってみることですね。

ー八千代市にはいつから住んでいますか?

 昭和35年です。単身赴任だったんで、家を空けている時間が長かったんだけど。

ー八千代市に対する印象を教えてください。

 地盤がしっかりしていて、地震に強い。大きい地震があった際に、僕の住むマンションはびくともしなかったから、良かったと思った。交通の便が良いしね。
 一回帰ってきてしばらく住んでいた時に、周辺の市街地ができてきて便利になってきた。
 生活に便利ですよね。

 それと何といっても新川。色んな自然が残っている。名所も残っているし。その中で練習してこれて最高です。妻の霊園の周辺も気持ちの良いところですよ。スカッとします。いい自然が残っていて、人もいいし。思いがけない出会いもあって、ますます八千代が好きになりましたよ!住んでいて気持ちが和らぐ、安心して暮らせるところだとだんだん気づいてきたね。

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