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八千代台図書館・公民館合同主催講座「大和田宿と成田道 ~成田参詣いまむかし~」が開催されました

ページID:0082328 更新日:2026年7月3日更新 印刷ページ表示

講座概要

開催日時 令和8年6月24日13時30分から15時
会  場 八千代台公民館研修室
講  師 八千代市立郷土博物館
     主任学芸員 宮下 聡史 氏
参加人数 18人
講座の様子1
 令和8年6月24日梅雨時らしい曇天模様の中、今年度1回目の八千代台図書館・公民館合同主催講座を開催いたしました。毎年人気の郷土の歴史講座、今年度のテーマは大和田宿と成田道(なりたみち)です。

 成田道は佐倉街道の通称で、江戸時代に整備された脇往還のひとつとして、佐倉藩ほか房総・東総諸藩の参勤交代に使われた他、成田参詣の交通手段としても使われた道です。そして成田道の中継地点のひとつとして八千代市大和田周辺に設置された宿場町が大和田宿です。
 市内には往時を偲ぶ史跡はほとんど残っておらず、資料から当時を想像するしかないことが残念ですが、成田参詣に関する当時のガイドブックや有名な「東海道中膝栗毛」の派生作品、滑稽本「成田道中膝栗毛」等が発行されていることからも、人気の程が伺えます。
 八千代市の郷土史の中でも比較的よく知られた題材ですが、さらに理解を深めて頂く機会としたく、昨年中より計画しておりました。ですので、今年も昨年の「八千代市の団地」に続き、郷土博物館の宮下先生にご登壇をいただきました。

講座の様子

 日本の街道は,飛鳥時代あたりから中国に倣って「駅路」(延喜式等が有名)が設けられましたが、鎌倉時代になるとそれが維持できなくなり、代わりに武士や商人たちの移動のために東海道の原型などが形作られたと言います。ただし、一部を除いて自然に踏み固められた状態を「道」と認識していた程度でもあったようです。また、この頃の旅は野宿が当たり前の命がけで行うもので、物見遊山で出かける行為ではありませんでした。

 やはり現代的な感覚での「道」や「宿」は、徳川幕府と共に整備されたと言ってよく、またレジャーとしての旅も江戸時代からはじまったと言えるかもしれません。とはいえ、当たり前ですが現代のように目的地までお膳立てされた旅ではありませんでしたから、江戸から今の感覚で言えば近距離であろう日光や熱海への旅ですら、庶民にとっては、多くの費用と日数を要する一世一代の決断だったようです。ですから、往復約130キロ、日数にして3泊4日くらいで済む「成田参詣」が江戸市民にとっての身近なレジャーとなったことは、自然なことでした。

 そして、成田参詣の旅程のちょうど半分くらいに位置する「大和田宿」は、残念ながら明確な資料は少ないそうですが,「普通」の旅人にとっては宿をとるには都合がよく、時代はだいぶ下り、1871年時点での数字ですが、5軒の旅籠が軒を連ね、1日平均50人程度の宿泊客がいたようです。
 また、江戸から見て、大和田宿の前に船橋宿があり、そこには歓楽街などもあったため、旅慣れた者はそこで宿をとることもあったようですが、次の日が強行軍となるため、やはり大和田か臼井で宿をとることが一般的であったようです。そして今日、史跡こそほぼ残っておりませんが、市内では「新木戸」などの地名が、往時を偲ばせます。

 講師から成田道に関する数々のエピソードや知識をご披露頂き、やや難しめのおはなしもありましたが、ご参加の皆さんは頷きながら熱心に聴かれ、メモもとられていました。熱心に毎回参加してくださる方もおり、担当者としても嬉しいかぎりです。
 成田道の各宿場町の役割や、参勤交代の経路の変遷、そして時代とともに街道の旅が終焉していった原因などを詳しく解説いただきました。またひとつ、郷土を知る機会を得たのではないでしょうか。
 今回もいつものように、図書館司書が選書した関連資料のブックリストを配付させていただきました。参加者のみなさん、宮下先生、スタッフのみなさん、たいへんお疲れ様でした。今後も楽しく、役に立つ講座を企画していきたいと思います。今後とも八千代台図書館・八千代台公民館をよろしくお願いいたします。
講座の様子2
講座の様子3

アンケートから

・継続して頂ければ幸いです。
・勝田台に住んでいます。成田山まで歩いてみたいと思っていました。
・次回も参加したい!
(今回,感想のご記入は少なめでしたが,概ね好意的な評価を頂戴しました。)

八千代台図書館がおススメする講座のポイント 「水戸黄門様と成田道」

 街道と宿場町を舞台に活躍したドラマと言えば、『水戸黄門』を挙げる方も多いかと思います。約40年に渡り、全43部1000話以上のエピソードが製作された,言わずと知れた国民的ドラマですね。
 歴代の水戸黄門様のうち、東野英治郎さん、西村晃さん、佐野浅夫さんは、それぞれ1回ずつ、佐倉を訪れています(第11部第25話「胸に悲願の裏切り者・佐倉」、第18部第2話「御老公爆殺指令!・佐倉」、第22部第2話「旅のはじめの鬼退治・佐倉」)。水戸の西山荘から佐倉までは成田道を使っての行程となりますので、江戸までの間に、大和田宿も通過しているはずです。

 もちろんこれはドラマ上の設定ですが、講座中でも少し触れられておりましたが、実は歴史上の水戸黄門様も、諸国漫遊こそしませんでしたが、成田道を利用しています。
 徳川光圀は、1674年に鎌倉にある縁者のお墓参り等の目的で成田不動尊を参詣し、酒々井、千葉、そして進路を内房にとり、上総湊から海路で鎌倉へ渡っています。ちなみに房総紀行の真の目的は、光圀生涯をかけての一大事業である、『大日本史』編纂の資料収集であった、とも言われています。真相はともかく、移動経路を見ると、確かに短期間ながら、かなり精力的に移動していたことが伺え、その様子は『甲寅紀行』や『鎌倉日記』にまとめられています。ちなみに後年、蝦夷地へ探検隊も出しており、巨船も建造しています。これは当時の法令違反でしたが、幕府もやむなく黙認しています。

 ドラマの黄門様も時折、博打を打ったりするなど、羽目を外す場面が見られましたが、史実上の黄門様もまた、若い頃は派手な格好をして喧嘩を売るなど、傾いた人物でした。しかし、18歳の頃に司馬遷の『史記』を読んで衝撃を受け、以後学問にまい進し、30歳頃から生涯をかけた一大事業『大日本史』編纂をはじめます。
 時にお金の使い過ぎを指摘され、それが水戸藩の民を苦しめる一因ともなりましたが、一歩も引かずに『大日本史』の完成を目指しました。また、五代将軍綱吉の「生類憐みの令」に猛反対し、長老格として直言したとも言われるように、光圀は極めて純粋で、良くも悪くもまっすぐな人物だったのかもしれません。結局光圀の存命中に『大日本史』は完成せず、それから約200年後、水戸家13代徳川圀順が完成させます。皮肉なことに、光圀以来培われた水戸学が、徳川幕府の終焉を招くきっかけともなっていくのです。 

【今回の記事は,『平成十五年度 第三回企画展図録 江戸の旅 「成田詣と大和田宿」』(八千代市郷土博物館 2004年)、『八千代の歴史 通史編 上』(八千代市郷土博物館 2008年)、『日本人名大辞典4』(平凡社 1937年)、『国書人名辞典 第三巻』(市古貞二ら編 岩波書店 1996年)、『国史大辞典』(吉川弘文館 1980年)、『徳川光圀 「黄門さま」で名高い水戸藩主』(鈴木暎一 山川出版社 2010年)、『徳川光圀 人物叢書新装版』(鈴木暎一 吉川弘文館 2006年)、『水戸黄門がやってきた』(鋸南町菱川師宣記念館HP)、『水戸黄門大学』(BS-TBSHP)をもとに作成いたしました。】
講座ポスター

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