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上村松園―コラム私たちの心を動かした5人の女性(1)

ページID:0001237 更新日:2021年5月11日更新 印刷ページ表示

矢立てと筆
 上村松園(うえむらしょうえん)は、1875(明治8)年、京都四条通御幸町奈良物町にある葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれました。本名は津禰(つね)。父はつねの生まれる2ヵ月前に世を去り、母の仲子が娘二人を育て上げました。つねは子どもの頃から絵を描くのが好きでした。小学校を卒業すると母の勧めで京都府画学校へ行きました。母は生涯つねを応援しました。

 学校では四條派の鈴木松年につきました。学校ではあきたらず放課後も松年の家へ通いますが男子学生の中で苦労します。人物画を志すも、学校では花鳥山水のみで失望し退学。しかし師匠につき、懸命な努力で、数々の賞を受賞します。自分の目指す、気品のある美人画を描くようになります。

私の心を動かすところ

 松園の画は女性の視点で描かれた美人画です。ただ美人画を描いただけでなく、江戸以来の浮世絵とは異なる女性像です。私にはとても印象に残り、女性の内面も描き気品も高く生活感情も現れている美人画だと感動しました。松園は男性優位の画の世界で男性に負けずに精進し、今日の女性画家の道すじを拓いたのだと思いました。

 1888年、松年に正式に入門。雅号、松園をもらいました。美人画を志し自分の姿を鏡に映したり近所の娘をモデルに猛勉強しました。松園は展覧会や博物館へ行き縮図(今日の写生)をしました。努力のかいあって修業時代にも数々受賞をしました。1890年、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品し、一等褒状を授与しました。松園は14歳。当時来日していた英国皇太子に買い上げられました。

 松園は3人の師匠に学びました。最初の師、松年は松園の育ての親です。しかし、より広い画の世界を見たいと考え、松年の許しを得て1893年に幸野楳嶺の門下生となりました。1895年に楳嶺が死去すると、その筆頭弟子の竹内栖鳳に入門しました。

 松園は母となり祖母ともなりました。1902年、信太郎(のちの松篁)を産みました。父は師の松年で未婚の母として生きた松園を支えたのは母でした。息子も孫も松園の姿を見て画家となり大成しています。家族で仕舞を稽古したり写生旅行も行きました。1934年、母が86歳で死去。すると松園の画は母の面影を慕い「青眉」、「母子」など市井の人妻を描くようになりました。母との二人三脚の人生だったと思いました。

 松園は1949(昭和24)年、74歳で亡くなりました。画に情熱を傾けた生涯でした。松園の画には考え方や画にかける姿勢を貫いた作品が数々あります。代表作の一つ「序の舞」は、のちに松篁の妻となる女性を描いて政府買い上げとなり1965年発行の切手となりました。画集や著書は八千代市内の図書館にも収蔵されています。

 参照:『上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後』上村松園著求龍堂発行、『上村松園画集』青幻舎発行、画集『上村松園』光村推古書院発行

(M.F)

 注記:らいてうの会は女性がどのように生きたかを重点に学んでいます。文献によって生年などの記述が異なる場合がありますが、学習のまとめとして作成している記録誌を基本としています。

 

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