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知里幸恵―コラム私たちの心を動かした5人の女性(1)
知里幸恵(ちりゆきえ)は、1903(明治36)年、北海道登別で父・高吉と母・ナミの間に生まれました。文字では残されていなかったアイヌの物語(ユーカラ)をローマ字で書き表し、日本語訳を付けて『アイヌ神謡集』としてまとめました。
ユーカラの名人の祖母からたくさんのアイヌの物語を聞いて育った幸恵は、アイヌ語を研究していた金田一京助と出会い、使命感を持つようになります。1922(大正11)年、本の出版準備を終えた翌日、心臓発作を起こし、19歳で亡くなりました。
私の心を動かすところ
幸恵は、アイヌの文化を伝える口承文学を記録し、アイヌの誇りを取り戻す手がかりを作った人です。明治時代、アイヌの子どもたちは、学校でアイヌ語を使うことを禁じられ、親も教えなかったので、アイヌ民族の文化や言葉は消える運命にありました。北海道の先住民として自由に狩猟、採集生活をしていたアイヌの人々は和人(本州から移り住んだ人)から土人と呼ばれ、差別を受けていました。
祖母モナシノウクの語り(ユーカラ)を聞き、キリスト教信者の母ナミと叔母マツからローマ字を学び、職業学校で優秀な成績を修めた幸恵は、その才能を言語学者の金田一京助に認められ、アイヌ民族の誇りを自覚します。京助からもらったノートに祖母の話を記録する中で、日本語にないアイヌ語の微妙な発音をローマ字で表す表記法を発明します。
生まれつき心臓が弱かった幸恵ですが、アイヌの誇りであるアイヌ語を書き残すことに強い使命感を持ち続け、アイヌ語をローマ字で表し、日本語訳を付ける作業に全身全霊をかけて取り組みました。婚約者と仮祝言をあげた後、東京の金田一家に住み込み、『アイヌ神謡集』の最終校正を終えて、亡くなった幸恵。もう少し生きていれば完成した本を読むことができたのに。19年という短い生涯でしたが、消えゆく運命にあったアイヌの物語を書き残した幸恵の功績はとても大きいものだと思います。
2007年、国際連合で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、翌年、国会で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択されました。迫害され続けてきた世界各地の先住民族の人権や権利が認められたのです。幸恵がまいた種は、言語学者となった弟・真志保のアイヌ語研究や弟・高央の娘、むつみの『知里幸恵・銀のしずく記念館』(2010年開館)、『ウポポイ・民族共生象徴空間』(2020年開館)へと実を結び、アイヌ文化を世界に発信し続けています。
私は、アイヌの言葉を受け継ぎ、差別や偏見にあっても、常に誇りを持ち続けた幸恵の生き方に心惹かれました。
参照:『歴史を生きた女性たち〈第1巻〉自分らしく豊かに生きて5アイヌの誇りをノートにして』歴史教育者協議会編集汐文社発行
(Y.S)
注記:らいてうの会は女性がどのように生きたかを重点に学んでいます。文献によって生年などの記述が異なる場合がありますが、学習のまとめとして作成している記録誌を基本としています。