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神近市子―コラム私たちの心を動かした5人の女性(2)

ページID:0001254 更新日:2021年11月2日更新 印刷ページ表示

英語の書類
 神近市子(かみちかいちこ)は、1888(明治21)年、長崎県で生まれました。女子英学塾(現・津田塾大学)在学中に青鞜社に入社しましたが、津田梅子塾長の知るところとなり、青鞜社を退社し、弘前の青森県立女学校に赴任しました。ところが、青鞜社社員だったことを理由に職を解かれます。その後も青鞜社社員だったことで職を追われたり、恋愛事件の被告となったり、どん底と言っていい状態を経験したにもかかわらず、自分の思う道を歩んだ女性です。

私の心を動かすところ

 市子は幼くして父と兄を亡くしましたが、学問をあきらめず、1904年に長崎市のミッションスクールに入学します。英語を猛勉強し、1910年に女子英学塾に入学します。ここで『青鞜』のことを知り、青鞜社社員になります。小説と翻訳物を計6本『青鞜』に寄稿しました。しかし、女子英学塾を卒業する条件として青鞜社を退社し、1913年に青森県立女学校に赴任します。ところが青鞜社社員であったことから、わずか一学期で退職に追い込まれます。

 1915年に東京日日新聞社に入社し、英語を活かし活躍していたのですが、大杉栄との恋愛が発覚し、1916年5月に退職します。同年11月、大杉と伊藤野枝との恋愛関係に悩み、大杉を刺すという日蔭茶屋事件を起こします。市子は殺人未遂事件の被告として裁かれ、懲役2年の判決を下されます。

 1919年に出獄すると文筆活動に入り、翌年、評論家の鈴木厚と結婚し二女一男を授かりました。子育てをしながら文筆活動を続けていましたが、1939年に離婚します。その後は、一人で子どもたちを育てました。

 第二次世界大戦終戦後は、女性解放運動や人権擁護運動に従事し、1953年に衆議院議員に初当選し、1969年に引退するまで5期を務め、売春防止法成立に尽力しました。

 若い日の青鞜社への入社で何回も職を解かれました。また、恋愛から人生のどん底も経験しました。小説のような恋愛の悲劇です。人を刺したことは罪ですが、そこで人生をあきらめなかった強さには驚かされます。何度もつまずき、絶望もしたでしょう。でもあきらめなかった。今よりも女性の社会的地位も低く、立場も弱かった時代に、強く生きた女性。行動した女性。その生き方に見習うべきことはあると思います。

参考:『『青鞜』人物事典―110人の群像―』らいてう研究会編大修館書店発行、『らいてう(二)』らいてうの会編集・発行

(M.W)

 

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