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ガントレット恒子―コラム私たちの心を動かした5人の女性(3)

ページID:0001275 更新日:2022年10月26日更新 印刷ページ表示

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 ガントレット恒子(がんとれっとつねこ)は、1873(明治6)年、愛知県で父・山田謙三と母・久の間に長女として生まれました。弟に作曲家の耕筰がいます。

私の心を動かすところ

 父は恒子が幼いときに上京し商売を始めました。明治維新後、商売は順調に進みますが、それにつれて父は行動が乱れ、母への暴力も激しくなり、母は叔母夫婦のすすめで洗礼を受けました。

 6歳になった恒子は叔母夫婦の助言で寄宿舎のある東京府の桜井女学校に入学します。のちに矢島楫子(かじこ)が校長になるキリスト教系の学校です。1890年に卒業すると、群馬県前橋の共愛女学校の英語教師となり、給料のほとんどを実家に送り、家族の生活を支えました。

 1894年、いっしょに働いていたパミリー宣教師からエドワード・ガントレットを紹介されました。エドワードはイギリス生まれの教育者・オルガン奏者で英語を教えていました。1898年に二人は教会で結婚式を挙げます。日本では国際結婚が珍しかった時代に、法的な国際結婚第1号となりました。恒子がイギリス国籍を取ったのです。結婚する時、恒子は条件を出しました。それは、一生、女性の解放のために働くことを認めてほしい。そのための費用は自分で働く、その時間は与えてほしいというものでした。

 東京では恩師の楫子が、日本キリスト教婦人矯風会(矯風会)(※1)を設立します。恒子は上京し、いくつかの学校で英語を教えながら矯風会では通訳など様々な仕事に精力的に参加していきました

 1920年に初めて海外へ渡り、ロンドンで第10回矯風会世界大会、ジュネーブでは万国婦人参政権協会の大会に出席。「世界各国の婦人が参政権を得て世界平和確立のために尽力することを望む」というメッセージをたずさえて帰国しました。1921年に「日本婦人参政権協会」を設立します。

 1930年、「戦争原因及防止法研究会」に参加するためアメリカに渡り、ロンドン軍縮会議にも日本から18万人の請願書を持って参加しました。しかし、その努力もむなしく、戦争に突入する時代を押しとどめることはできませんでした。のちに自伝のなかで、約25年近く世界平和を叫んできた自分が一言も戦争反対の声をあげられなかったと記しています。

 国際結婚が少なかった時代に結婚にふみきり、しかも自分の生き方を貫くために努力した人生は、後世の私たちに励ましのバトンを渡してくれた一生だと強く感じました。

※1 矯風会・・・南北戦争後のアメリカで行われた禁酒運動から生まれ、1883年に世界組織となった。日本では、1886年に来日したメリー・C・レビットの影響を受けて東京婦人矯風会が創立され、1893年には全国組織の日本キリスト教婦人矯風会ができた。初代会頭は矢島楫子。禁酒運動だけでなく、廃娼運動や女子教育、婦人参政権獲得運動、国際軍縮会議参加などにも活動を拡げている。

参照:『クラシック音楽と女性たち』玉川裕子著青弓社発行、『七十七年の思ひ出』ガントレット恒子著大空社発行、『婦人参政権運動小史』市川房枝監修・児玉勝子著ドメス出版発行

(O.M)

 

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