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河崎なつ―コラム私たちの心を動かした5人の女性(3)

ページID:0001277 更新日:2022年10月26日更新 印刷ページ表示

黒板

 河崎なつ(かわさきなつ)は、1889(明治22)年、奈良県五條町で父・常三郎と母・さとの間に第4子として生まれました。なつを産んだ後に母は結核で亡くなり、小学校に入学するまで里子に出されました。その後、教師になって弁当を持ってこれない子どもの存在を知り、社会問題を強く意識するようになりました。1920年に市川房枝と平塚らいてうが発足した「新婦人協会」を始めとして、「婦選獲得同盟」、「産児調節連盟」など多くの婦人運動にかかわりました。晩年を母親運動に捧げ、1966(昭和41)年に77歳で亡くなりました。

私の心を動かすところ

 1905年に奈良女子師範学校を卒業し、満16歳で奈良県の五條小学校の教師になります。不合理なことを見過ごせない性格で、社会問題に目を向け始め猛烈に読書を始めます。3年後、東京女子高等師範学校(女高師)に入学しますが、保守的な教育に不満を持ち『青鞜』の熱心な読者となります。1912年、希望して北海道の小樽高等女学校に赴任し、「自由課題」という作文教育を行いました。作文から特長を見つけて励ます、ていねいな指導はたくさんの生徒に強い印象を与えました。

 1916年、再び女高師の研究科に入り、野坂龍(後の野坂参三の妻)を通じて与謝野晶子との交流が始まります。卒業後は同校の講師となり、生徒の山高しげりと出会います。

 1918年、東京女子大創設にともない、国語教授となりますが、スペイン風邪に侵され、約10か月療養。1920年に晶子の紹介で「新婦人協会」に参加し、平塚らいてう、市川房枝と知り合います。1921年、西村伊作、与謝野夫妻と共に文化学院設立メンバーの一員となり、20年間国語教授として勤めます。1928年から1932年の4年間は津田英学塾でも教えました。そのかたわら、女性解放を目指す婦人運動に積極的にかかわり、1923年「東京連合婦人会」では教育部などで活動し、1925年には婦選獲得同盟(婦人参政権獲得同盟から改称)の議会運動委員会の中心となります。また、社会主義運動の「水曜会」で知り合った弁護士の徳田球一と婚約しますが、思想の違いから婚約破棄となりました。

 1921年から1934年まで『読売新聞』の「身上相談」の回答者となり、現実に合ったユニークな回答は、それまで発言の機会を持たなかった主婦たちから支持されました。また、「母子心中」に心を痛め、女性が経済力を持つ大切さを痛感し、「母子保護法」制定のために力を注ぎました。

 1946年、夢を託した姪で養女の雪子を亡くします。雪子は東京女子医学専門学校を卒業した後、茨城県の無医村で医師として働いていたのですが、難産で3人の子どもを残し32歳で亡くなったのです。なつは、その悲しみを乗り越えて、1947年の第1回参議院議員選挙で当選し、6年間厚生委員として母と子どもの問題に取り組みました。

 細かいことにとらわれず、実際にやってみるという合理性を持つ反面、つましい生活の中で蓄えた金を、頼ってくる友人、教え子や親類縁者の支援のために差し出しました。

 なつは人生の最後を母親運動に捧げました。1955年に第1回日本母親大会の事務局長となり、世界母親大会日本代表団長を務めました。1966年の第12回日本母親大会は様々な問題がからんだ混乱から開催が危ぶまれ、自身は脳軟化症に侵されていましたが友人に身体を支えられて壇上に上がり、最後の演説を行いました。

 なつの言葉に「ポストの数ほど保育所を」「母親がかわれば社会がかわる」があります。私は、最後まで教育者として生き、母と子どものために政治に参加したなつの生き方に憧れを感じます。

 参照:『母親がかわれば社会がかわる=河崎なつ伝』林光著草土文化発行、『叢書女性論33明日に生きる女性―河崎なつ著』山崎朋子監修大空社発行、『女と職業10職業婦人を志す人のために―河崎なつ著』中嶌邦監修大空社発行

(Y.S)

 

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