ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 企画部 > 男女共同参画センター > 市川房枝―コラム私たちの心を動かした5人の女性(3)

本文

市川房枝―コラム私たちの心を動かした5人の女性(3)

ページID:0001278 更新日:2022年10月26日更新 印刷ページ表示

パンツスーツ

 市川房枝(いちかわふさえ)は、1893(明治26)年、愛知県中島郡明地村(現・一宮市)で父・藤九郎と母・たつの間に男二人女四人の三女として生まれました。気の短い父が母につらく当たると、幼い房枝は母をかばいました。当時の農村では、女性は夫の「家」の所有物のように扱われていました。実家に帰りたいが子どもがかわいいから我慢している、女に生まれたのだから仕方ないという母の言葉に、なぜ女だけが我慢しないといけないのか、と幼い房枝は納得がいきませんでした。この時期に抱えていた理不尽な男女差に関する憤りや、母の嘆きへの疑問が、その後の女性解放運動への原点となりました。

私の心を動かすところ

 房枝が生まれたのは日清戦争がはじまる前の年で、女性の政治活動を禁止する「集会及政社法」が公布された3年後でした。明治政府は、国民の活動が政治の障害になることをおそれていました。

 父は子どもたちには優しく、当時の農家には珍しいほど教育熱心で、房枝は自作農だった家業を手伝いながら高等小学校を卒業しました。15歳の時に矢島楫子(かじこ)が校長だった東京府の女子学院に合格しますが、礼拝の時間がいやで4か月で帰郷します。その後は、愛知県岡崎の第二師範学校女子部で学び、4年生からは新設された愛知県立女子師範学校に移ります。そこで、房枝は良妻賢母教育をめぐって校長と対立し、話し合いを行うため、仲間と無言受講や白紙での試験提出を行いました。女子学生による初めてのストライキです。この活動の中で、論理的な考え方や行動力などを育んでいきました。

 母校の尋常小学校の教諭になった房枝は、23歳の時に体調を崩し5か月の療養後に3月末で退職。その後、名古屋新聞の記者になりました。取材をとおして「大正デモクラシー」という国民が主役の民主主義思想にふれ、上京します。

 山田わか・嘉吉(かきち)夫妻の外国語塾で学んでいた房枝は、25歳のときに、わか から平塚らいてうを紹介されます。1919年、名古屋新聞主催の夏期婦人講習会でらいてうと再会し、11月には「新婦人協会」を創設します。女性の社会的地位の向上と政治的な権利の獲得を目指した近代日本で初めての婦人団体でした。二人は、翌年の発足会を目指して活動を始めます。その運動の目的は、女性が政治集会に参加することなどを禁止する「治安警察法第5条」に修正を加えること、「花柳病男子の結婚制限法」の制定でした。活動は注目を集めますが、房枝はらいてうとの考え方の違いを感じ、2年もたたずに「新婦人協会」を離れました。

 1921年に読売新聞外報部の特派員として渡米。英語力を高めるためにスクール・ガール制度(※1)を使い、住み込みで家事を手伝いながら学校に通いました。シカゴ滞在中に、東京の友人からの手紙で「治安警察法第5条」改正が実現し、女性の政治参加が可能となったことを知ります。滞在中は各地を回り、労働現場や移民街などを視察。「全米女性党」の本拠地であるワシントンの「オールド・キャピタル」を訪ねた時には、指導者であるアリス・ポールと日米それぞれの女性解放運動のことを語り合い、房枝は女性参政権獲得という目標をもちました。

 関東大震災の翌年の1924年に帰国し、婦人参政権運動に全力を傾けていきますが、戦争によって中断されます。1945年に日本が敗戦すると、房枝は婦人参政権を日本人自身の手で実現させるよう総理大臣や議員に訴え続けました。幣原(しではら)内閣の協議の中で改正案に女性に参政権を付与することが決まりますが、その翌日、GHQのマッカーサー最高司令官からも内閣に指示がくだされます。その指示を受け11月に臨時国会が召集され、女性に参政権を与える案は可決。12月17日に公布され、日本の婦人参政権は実現しました。悲願でしたが、戦勝国から敗戦国に与えられたもので、房枝の思いは複雑でした。

 房枝は「理想選挙」を目指しました。これは「出たい人より出したい人を」という理想にもとづくものです。選挙運動を行うのは、候補者の立候補を望む推薦会で、候補者本人は政見放送や一部の演説会以外、選挙運動をしない。一人から多額の寄付を受けずに、支出は節約し、収支を明らかにする。選挙違反には気を付けて、トラックや拡声器を使わない。このような当選しそうもない方法で、房枝は1953年の第3回参議院議員選挙で当選し、その後も長期にわたって参議院議員をつとめました。

 衆議院・参議院の枠を超えた議員の協力体制を作って「売春防止法」や「よっぱらい取締法」の制定などに力を注ぎ、党の違いを越えた協力体制を次々に作って女性解放運動を推し進めるなど、それまでの政治の常識をくつがえす、斬新な運動を起こしていきました。さらに、アメリカからの帰国後にはすでに関係が修復されていた らいてうと、国内外の平和運動にも積極的にかかわり続けました。

 1971年に落選しますが、3年後には若い青年たちのグループに推されて、参議院議員選挙全国区で第2位当選を果たします。1980年、87歳のときには第1位当選を果たしますが、その翌年の2月に心筋梗塞の発作で亡くなりました。

 私は房枝にはまだまだ政治活動や平和活動を続けてほしかったと思います。今日も房枝の政治姿勢を受け継ぎ実践する政治家がいることを願っています。

※1 スクール・ガール制度(スクール・ボーイ制度)・・・住み込みで一般家庭の家事を手伝って、給料をもらいながら学校に通う仕組み。

参照:『ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉市川房枝-女性解放運動から社会変革へ』筑摩書房編集部著・発行、『らいてう(十四)』らいてうの会編集・発行

(M.F)

 

「私たちの心を動かした5人の女性(3)」トップページへ戻る

皆さまのご意見をお聞かせください

お求めの情報が十分掲載されていましたか?
ページの構成や内容、表現は分かりやすかったですか?
この情報をすぐに見つけられましたか?