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山高しげり―コラム私たちの心を動かした5人の女性(3)

ページID:0001279 更新日:2022年10月26日更新 印刷ページ表示

哺乳瓶とペン

 山高しげり(やまたかしげり)は、1899(明治32)年、三重県津市で父・幾之丞、母・とみの間に二女として生まれました。9歳の時、群馬県女子師範学校校長だった父が44歳で亡くなりました。兄は中学を卒業したばかり、19歳の姉は脳膜炎で父の死も分からず、妹は3歳でした。この4人を抱え、元教員だった母は桐生高等女学校教師となり、一家の支え手となったのです。この母の再出発が、しげりを母子福祉に向かわせました。

私の心を動かすところ

 母・とみは、三重県師範学校初の女子入学生3人のうちの1人でした。その後東京女子高等師範学校(女高師)に入学するのですが、津から四日市までは人力車、横浜までは船、そして蒸気機関車でお茶の水へ、という気の遠くなるような道のりでした。4人の子どもを抱え44歳で教壇に戻ったとみの強さは、津からお茶の水まで行った若き日の行動力にも表れているように思います。母子家庭で育ったことが、しげりを母子福祉、女性の自立に関わる活動に向かわせたのですが、その行動力も母ゆずりだったのではないかと思います。

 1916年、しげりは女高師に入学しますが、1918年に中退。1919年に金子従次と結婚し、翌年に出産します。この年に国民新聞社に入社し、その後1924年に主婦之友社に入社、記者として活動するかたわら、「婦人参政権獲得期成同盟会(のちの婦選獲得同盟)」結成に参加し、中央委員となります。1934年には山田わか たちと「母性保護法制定促進婦人連盟(のちの母性保護連盟)」を結成し、母子保護法制定に尽力しました。出産後すぐに記者として働き、同時に女性のための活動も始めたバイタリティに驚きます。

 1962年には参議院議員選挙で次点落選しますが、9月に繰り上げ当選し、9年間議員を務めます。その間、1964年には母子福祉法が成立しました。

 現在も母子家庭の一番の問題は母親の経済力だと思いますが、しげりが一番の信条としたのは、母親の心身両方の独立ということでした。再婚するにしても、母親に経済力がなければ、夫に食べさせてもらうという関係になります。まずは、食べられる生活が確立していることが必要という考えは、現在につながるものだと思います。また、母親たちの組織があることで、仲間がいるという心の独立、安定が得られるということです。しげりは組織について、1粒1粒のご飯粒が団結すると力も粘りも出てくると、おむすびに例えていたそうです。

 自分の生い立ちから問題を見出し、そのことに生涯をかける力、また全国どこにでも出向く行動力、しげりは最後まで行動の人でした。交通の便も悪い時代に、様々な場所に出向いています。その一貫した信念と行動力に強く惹かれます。

参照:『山高しげり 母子福祉四十年』山高しげり著日本図書センター発行、『津市男女共同参画情報紙 つばさ No.11』津市市民部男女共同参画室発行

(M.W)

 

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