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山下りん―コラム私たちの心を動かした5人の女性(4)

ページID:0048557 更新日:2024年4月23日更新 印刷ページ表示

山下りん挿絵 山下りん(やましたりん)は、1857(安政4)年、茨城県笠間市笠間で父・重常と母・ための間に生まれ、兄と弟と3人で育ちました。父は笠間藩主牧野家に仕える武士でしたが、りんが6歳の時に亡くなり、兄が後を継ぎました。明治維新で給与を得られなくなり、生活は困窮。弟は母の実家・小田家の養子となりました。りんは、絵師を志して家出して上京。浮世絵師に弟子入りした後、工部省の工部美術学校の試験に合格し、西洋画を学びました。同級生の影響を受けて東方正教会に入信。ロシアへ留学し、願っていた西洋画家ではなくイコン(※)の聖像画師となりました。

私の心を動かすところ

 りんは、1872年に家出して上京しました。一度は連れ戻されましたが、翌年に再び上京し美人画の大家だった浮世絵師の国周の内弟子になりました。1875年に南画家から洋画家となった中丸清十郎の門下生になり、1877年には開校したばかりの工部省工部美術学校の女子の公募に願書を提出し、入学を許可されました。工部美術学校には画科と彫刻科があり、男女共学で女子6人が入学しました。りんは優秀な画学生でした。この時の教授は、イタリアの代表的な画家の一人だったアントニオ・フォンタネージで、基本を大事にする指導者でした。彼の指導で日本の洋画界はスタートしました。しかし、フォンタネージは1878年に日本を去ることになり、その後、学生たちの多くが後任教師の指導が不満で退学。りんも1880年に退学しました。

 同級生の山室政子に誘われて、神田ハリストス正教会に通ううち、ニコライ神父の人柄に惹かれるようになり、入信しました。ニコライ神父はイコン画家にするため、政子をロシアに留学させる予定でしたが結婚が決まり、急遽りんが留学することになりました。ロシアの都サンクトぺテルブルグにある修道院で、5年間、絵を勉強するという話でした。ニコライ神父の片腕だったアナトリー神父らとの同行で、船でロシアへ向かいました。船旅の間、当時23歳のりんには個室が与えられず大部屋で、食事も厨房前でとらされ、子守りまでさせられました。

 1881年3月、ペテルブルグ女子修道院でイコンを学び始めました。ロシアに着いて2カ月後、望んでいたエルミタージュ美術館を見学し、優れた西洋画を見て、伝統的なイコンとの落差を痛感し、西洋画を学びたいと願い出ます。エルミタージュ美術館通いの許可がおり、西洋宗教画の模写を始めましたが、修道院内で反対の声が上がり2カ月で中止させられました。りんは描きたい絵が描けないため、ついに心身の不調をきたしました。予定を早めて1883年3月に帰国の途につき、帰国後は日本で初の聖像画師としてイコンの制作に没頭しました。

 晩年は笠間で、弟の家の敷地内に建ててもらった家に住み、自然を友とし、大好きな酒を唯一の楽しみに過ごし、1939(昭和14)年に82歳で亡くなりました。

 りんは、多くのイコンを制作しましたが、作者を明記しない習わしなので、描かれた絵を見て判断するしかありません。りんが描いたイコンは丸みを帯びた温かい雰囲気の独特のイコンです。北海道の函館ハリストス正教会や、千葉県のハリストス須賀正教会など、日本全国に多くのイコンが残っています。私は、群馬県みなかみ町で見た温かみのある絵が独特で好きです。ロシア修行時代に自分の希望にそぐわない日々にも耐えて、いつか西洋画を学ぶという強い心から聖像画師となっていった、りんの姿に私は胸を打たれました。

 

※イコン・・・東方正教会で礼拝用に用いられる聖画像

参照:『らいてう(十六)』らいてうの会編集・発行、『山下りん―明治を生きたイコン画家』大下智一著 北海道新聞社発行、『山下りん 黎明期の聖像画家』鹿島卯女編 鹿島出版会発行、東京大学ホームページ「東京大学創立百二十周年記念東京大学展 学問の過去・現在・未来」、『白光』朝井まかて著 文芸春秋社発行、『魂のイコン 山下りん』高橋文彦著 原書房発行

(M.F)

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