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杉田久女―コラム私たちの心を動かした5人の女性(4)

ページID:0048560 更新日:2024年4月23日更新 印刷ページ表示

杉田久女挿絵 杉田久女(すぎたひさじょ)は1890(明治23)年、鹿児島市で父・赤堀廉蔵と母・さよの三女として生まれました。本名はひさ。お茶の水高女(※1)を卒業。旧制小倉中学校図画教師に就職した杉田宇内と結婚し福岡県小倉に住み、二女を産み育てました。
26歳から句を作り始め、『ホトトギス』(※2)に投句、その後高浜虚子に師事して俳句に打ち込みました。腎臓病を患い55歳で亡くなりました。

私の心を動かすところ

 久女は、官僚だった父の赴任先の鹿児島から岐阜県大垣、琉球(沖縄)、台湾と転居し、南方の植民地の豊かな暮らしの中で育ちました。3歳上の姉・静と久女はお茶の水高女に合格、久女は1902年(※3)に入学しました。

 1907年(※4)に、お茶の水高女を卒業。いくつもの結婚話の中から資産家の息子で東京美術学校(現・東京芸術大学)で西洋画を学んだ画家の杉田宇内を選びました。しかし、教師に徹して絵を描かない夫との小倉での暮らしは、久女が夢見ていた生活とは違って不本意なものでした。そんな中、次兄の小倉滞在中に俳句を学び、『ホトトギス』に投句し始めました。花見の晴れ着を脱ぐ時の句など場面を切り取ったような句を次々に生み出し、高浜虚子に評価されます。しかし、久女が俳句に熱中することを夫は気に入らず、二人の関係は悪化しました。

 1930年、新聞社2社(東京日日新聞、大阪毎日新聞)が主催した「日本新名勝俳句」募集で久女の「山ほととぎす」の句は、全国から応募の10万余句の中から選ばれた帝国風景院賞20句の中の金賞を受賞しました。気力が充実して主催誌『花衣』を創刊します。

 『花衣』は5号で廃刊となりましたが、虚子に認められて1932年に41歳で『ホトトギス』の同人になりました。久女は自分の句集を出そうと、尊敬する虚子に序文を書いてもらうよう懇願しますが、拒絶されます。久女の気持ちは理解されず、1936年には納得のいく説明もなく虚子に『ホトトギス』同人を除名されました。失意のうちに、戦時中も空襲から守った自分の句を整理し、娘に託しました。

 1945年10月、終戦後の食糧事情が悪い中で久女は栄養失調になり福岡県立筑紫保養院に入院しましたが腎臓病が悪化して、翌年1月に人生を終えました。俳句は今も名句として残されています。
読んだ瞬間、頭の中にぱっと情景が浮かぶような久女の句が私の心に焼き付きました。打てば響くような頭の回転の速さが、師や俳人仲間、夫など周囲に理解されずに思わぬ受け取り方をされたことが久女の人生を狂わせてしまったと思われます。そんな久女の情熱的で真っ直ぐな性格が分かる気がして胸が痛むと同時に、改めて句の素晴らしさを称えたいと思います。

 

※1お茶の水高女・・・お茶の水にあった女子高等師範学校附属高等女学校。1908年には東京女子高等師範学校附属高等女学校になった。
※2『ホトトギス』・・・正岡子規主催・柳原極堂編集で1897年に創刊した俳句雑誌。翌年からは高浜虚子が編集。俳句だけでなく小説や写生文も掲載。現在も発行されている。
※3 1903年、※4 1908年という説もあるが学籍簿が関東大震災で消失のため不明。

参照:『らいてう(十六)』らいてうの会編集・発行、『真実の久女―悲劇の天才俳人』坂本宮尾著 藤原書店発行、『鑑賞女性俳句の世界 第1巻 女性俳句の出発』坂本宮尾著 角川学芸出版/編、『花衣ぬぐやまつわる…わが愛の杉田久女』田辺聖子著 集英社発行、『広辞苑 第七版』新村出編 岩波書店発行

(I.K)

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