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淡谷のり子―コラム私たちの心を動かした5人の女性(4)

ページID:0048568 更新日:2024年4月23日更新 印刷ページ表示

淡谷のり子挿絵 淡谷のり子(あわやのりこ)は1907(明治40)年、青森市寺町で父・彦蔵と母・みねの間に長女として生まれました。1910年の青森大火をきっかけに実家は倒産。父と別れた母と、妹・とし子の3人で東京に上京。東洋音楽学校(現・東京音楽学校)を卒業後、流行歌手の道を選びました。「ブルースの女王」と呼ばれ、晩年まで歌い続け、1999(平成11)年に92歳で亡くなりました。歌を愛し、信念を貫き通した人です。

私の心を動かすところ

 のり子が生まれた時、父は18歳、母は17歳と若く、小学6年生まで祖父母のもとで育てられました。祖母はのり子を溺愛し、食べるもの、着るもの、なんでも最高のものを与えられましたが、のり子は母に会えない淋しさから「ゴンボ掘り」(※1)の子どもでした。父は先見の明をもった鋭敏な頭脳を持った人でしたが、古い商法に固執する祖父に不満を持ち、放蕩を始めました。そのような状況の中、青森大火で家屋が焼失し、実家の呉服屋は倒産しました。母は、女もこれからは男を当てにしないで生きていけるようにとの思いから、祖母に頭を下げてのり子を引き取り、県立青森高等女学校に進学させました。

 1923年4月、のり子は妹と母とともに、希望に満ちて上京し、母の勧めで東洋音楽学校に入学します。関東大震災で母の仕立物の内職の仕事が無くなり、先天性の眼疾を持っていた妹は栄養失調から失明の危機に陥ります。のり子は治療費を稼ぐため学校を休学して「霧島のぶ子」という名前で絵のモデルになります。

 復学後は、久保田稲子の厳しい指導を受け、1929年に声楽科を首席で卒業しました。「あなたは歌と一緒に死んでいくのね」という恩師の言葉を忘れることはありませんでした。

 「十年に一度のソプラノ」と評されたのり子でしたが、クラシックの世界で収入を得ることは難しく、レコード会社のポリドールと契約します。東洋音楽学校は学校の名誉を汚したとのり子を卒業生名簿から抹消しました(後に復籍)。当時の流行歌手は「遊芸稼人八等技芸士」(※2)という低い地位だったからです。

 1931年にジャズピアニストの和田肇と結婚。束縛を嫌ったのり子は籍を入れませんでした。5年後に別れますが、自由でモダンな肇の伴奏で歌うことでジャズを体得します。コロムビアレコードに移籍し、1937年に「別れのブルース」、1938年に「雨のブルース」がヒット。「ブルースの女王」と言われるようになります。

 戦争が拡大する中、派手な服装やメイクについて警告を受けますが、「ドレスと化粧は私の戦闘服よ」と抵抗し、決してモンペをはきませんでした。1938年に娘を出産。母に娘を預け、満州をはじめ中国大陸でも巡業しました。

 1978年に母が88歳で亡くなりました。どんな時でものり子を信じ、支え続けた母でした。1979年に勲四等宝冠章を受章。小劇場「渋谷ジアン・ジアン」でシャンソン歌手として10年近くステージに立ち続け、1989年、82歳の時に82カ所巡礼公演を行いました。

 流行歌手の道を切り開いていったのり子の強さは「ゴンボ掘り」の性格に根差していると思います。その生き方から「自由」とは自分に責任を持つことだと学ぶことができます。

 

※1ゴンボ掘り・・・青森の方言で「だだをこねる」。
※2遊芸稼人八等技芸士・・・人前で興業するために警察から与えられた鑑札(営業許可書)の地位。社会的地位が低い。

参照:『らいてう(十六)』らいてうの会編集・発行、『別れのブルース-淡谷のり子-歌うために生きた92年』吉武輝子著 小学館文庫発行、『ブルースの女王 淡谷のり子』吉武輝子著 文芸春秋発行、『私のいいふりこき人生』淡谷のり子著 海竜社発行、『私の遺言』淡谷のり子著 フジテレビ出版発行、『もう一度別れのブルースを 淡谷のり子ドキュメント』東洋図書出版発行、まんが伝記「歌ひとすじに生きて 淡谷のり子」矢野功作・画 青森市発行

(Y.S)​

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