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八千代市指定文化財(26~30)
26 上谷遺跡をはじめ新川流域出土の祭祀関連墨書土器群
墨書土器(ぼくしょどき)とは土器に墨で文字や記号、絵等を書いたものです。同様に土器に文字や記号等を刻む、刻書土器(こくしょどき)もあります。
千葉県は全国的にみても奈良・平安時代の墨書土器の出土量が多く、八千代市はその中でも特に多く出土しています。
指定された12個体の墨書土器は、保品の上谷(かみや)遺跡から出土したものをはじめ、萱田(ゆりのき台)の権現後(ごんげんうしろ)遺跡・北海道(ほっかいどう)遺跡・白幡前(しらはたまえ)遺跡から出土したもので、地名・人名・紀年銘・人面等とともに、「召代進上」等の文字が認められます。これは寿命や病気等で(あの世・地獄に)召される代わりに進上する(供物等をささげる)ことで、延命を願ったと考えられ、『日本霊異記』等に見られるような祭祀に係る墨書土器と考えられるものです。郷土博物館に展示されています。
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| 上谷遺跡A193号遺構出土 土師器 甕 墨書「下総國印播郡村神郷 丈部 (廣か?)刀自め(※「め」は正しくは「口へんに羊」)召代進上 延暦十年十月廿二日」 人面 |
上谷遺跡A226号遺構出土 土師器 坏 墨書「廣友進召代 弘仁十二年十二月」 人面 |
上谷遺跡A226号遺構出土 土師器 坏 墨書「丈部千総石女 進上」 |
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| 上谷遺跡A036号遺構出土 土師器 坏 墨書「野家立馬子召代進」 「承和二年十八日進」 |
上谷遺跡A112号遺構出土 土師器 坏 墨書「丈部麻□女身召代二月□ 西」 「西」 |
上谷遺跡A112号遺構出土 土師器 坏 墨書「丈部真里刀女身召代二月十五日」 |
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| 上谷遺跡A112号遺構出土 土師器 坏 墨書「丈部阿□□身召代二月 西」 「西」 |
上谷遺跡A112号遺構出土 土師器 坏 墨書「丈部稲依身召代二月十五日」 |
北海道遺跡D146号遺構出土 土師器 坏 墨書「丈部乙刀自女形代」 |
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| 北海道遺跡D048号遺構出土 土師器 坏 墨書「承和五年二月十□ □代」 人面 |
白幡前遺跡A258号遺構出土 土師器 小型甕 墨書「丈部人足召□」 人面 |
権現後遺跡D189号遺構出土 土師器 坏 墨書「村神郷丈部國依甘魚」 人面 |
27 石造二十三夜・日記念仏塔(層塔)
石造二十三夜・日記念仏塔(層塔) 萱田の長福寺にある石造二十三夜・日記念仏塔(層塔)は、月齢が二十三夜の夜に「講中」と称する仲間が集まり飲食を共にした後、経等を唱えて月を拝み悪霊を追い払う行事である「二十三夜講」、ならびに、月毎に特定の日を決めて講中が集まり念仏を行う行事である「日記念仏講」の満願成就に当たり、寛文9年(1669)年に造立された供養塔です。
月待ちの一つ二十三夜講の供養塔である二十三夜塔は市内では約60基が確認されています。市内での初出は吉橋字尾崎にある寛文8年のもので、当塔はこれに次ぐ古さを持っています。
通常、講毎に供養塔を建立することから、二つの講が合同で供養塔を建てる珍しい例であり、念仏塔としても二十三夜塔としても早い時期に建てられたものです。また、現在のところ、千葉県内において、同様の形式の供養塔は知られておらず、江戸時代初めの当地における信仰の様子を知る上で重要な資料となっています。
28 伝薬師如来立像(阿弥陀如来立像)
印旛沼周辺は古くからその水運が活用され,早くから開発が進んだ地域でしたが,その分水害に多く見舞われていました。このような地域性から,天空を制御する効験がうたわれる薬師如来の信仰が,古くから一帯に拡がっていたとされています。
伝薬師如来立像(阿弥陀如来立像)は,寺伝では薬師如来として伝わっていますが,阿弥陀如来の来迎印を結んでおり,像容は阿弥陀如来のものです。髪型等部分的に村上正覚院の清凉寺式釈迦如来立像を意識して作られたと見られますが,厳密には清凉寺式のものとは異なります。
伝来については,仏像自体に記銘等がされておらず,製作に関する資料も見つかっていない為,正確なことはわかりません。製作年代については,体軀の表現で胸に充分な厚みがあり肩や背の丸み等の肉付が適切であること,後頭部から背筋への側面観も優れていることなどの作風から14世紀後半から15世紀前半頃に遡るものと推定されます。また,榧材の使用や比較的単純な構造から,相応の水準に達した仏師によって当地で製作されたものと思われます。江戸期より前に製作された仏像は市内において当像のほか正覚院釈迦如来立像しか確認されていないことから,本市において歴史上価値が高いものです。
29 妙法蓮華経納置塔

この石塔は高さが2m23cmで元文四年(1739年)に桑納村の光明講の人々によって造立されたものです。円筒状の塔身部分の正面には「奉納妙法蓮華經一字一禮書寫之所」とあり,一字一礼(一文字書くごとに仏様に一礼すること)によって書写された妙法蓮華経が納められていることが記されています。
塔身の内部はくりぬかれ,内部には妙法蓮華経が納められた木製の箱が置かれています。塔身の左側面には「如我昔所願 今者已満足 化一切衆生 皆令入佛道」(私の昔のその所願は,今既に実現された。一切衆生を教化して,皆を仏道に入らせている),裏面には「乃至法界 平等利益 旹元文四年十月十五日」(このお勤めの功徳は,この世のすべての人たちの幸せのためです。元文四年十月十五日),右側面には「寳函盛經置於寳案光明講中善男善女 毎月助成合力之軰上求菩提下化有情」(宝函(箱)の中にお経を盛って,宝案(台)に置く。光明講の一員である信心深い信徒が協力してお金を出した。自らは成仏を求めて修行を行い,広く衆生を教化して仏道に導く。)と刻まれています。また,露盤には梵字で胎蔵界四仏を表す「ア(宝幢)・アー(開敷華王)・アン(無量寿)・アク(天鼓雷音)」が刻まれています。
光明講は悪い行いがもたらす障害や苦しみを取り除き,消滅させること等を目的として光明真言を唱える講ですが,光明講中の人々が妙法蓮華経を内部に納め本塔を造立している点から当時の信仰状況の様子を知ることができる大変興味深い文化財です。
30 青銅製華瓶
この華瓶は平成5年に行われた村上正覚院の発掘調査において空堀の底の部分を掘った穴の中から出土したものです。胴の部分には雷文3段が一周し,所々に花の文が付され,胴と脚の境には二条の帯状の突起があります。その形状は古代中国の酒器である「觚(こ)」の形状であり,中国北宋時代の書物にもこの華瓶とほぼ同じ様な形状とデザインのものが掲載されており,古代中国製銅器を模して作られたものと想像されます。
華瓶は香炉,燭台とともに「三具足」を構成し,セットで出土されることもありますが,この華瓶は単独で出土しています。華瓶は供養するための道具として用いられる他,寺院を美しく飾り立てることを目的として用いられれますが,この華瓶がどのような目的で使われていたのか等については詳しいことが分かりません。
この華瓶のような中世の青銅製の遺品は大変珍しく,本市における中世の歴史を考える上で大変貴重な資料です。また,華瓶の存在は県指定文化財「木造釈迦如来立像」等の正覚院関連文化財とともに,保元年間(1156年~1159年)開山と伝わる正覚院の歴史を解明していく上で大変重要なものです。

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