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八千代市指定文化財(11~15)
11 すわり地蔵
石造の地蔵菩薩坐像としては市内で最も大きなもので、米本2559-1付近にあります。
像の高さは106センチで、台座から含めると144センチもあります。石材は小松石で作られています。像の背中に寛文13年(1673年)2月の造立銘と念仏講の人々の名が刻まれています。
江戸時代前期における米本村の地蔵信仰をを示す大切な資料です。
伝説では近くにある善福寺に立っていましたが、もう一体の地蔵と喧嘩して、刀で切りつけられ負けてしまい、そのため今のお堂に座らせられたという話が伝わっています。
12 下総式板碑(しもうさしきいたび)
市内で最大の板碑です。神野公会堂(神野744)の敷地の中にあります。
形式は下総式といい、銚子を中心に下総地方に分布しています。八千代市のこの板碑はその西端のひとつになっています。
長年風雨にさらされたため、表面の3分の2が磨耗していますが、表面には胎蔵界大日如来(アーンク)の種子(しゅじ)の一部が見られます。その下部には100名以上の戒名が見られますが,造立の年号は残っていません。
種子とは,古代インド文字である梵字(ぼんじ)を板碑などでその1文字を用いて仏菩薩を表し,この1字が限りない仏の恩恵を受けるものとみる密教観からそのように呼んでいます。右の濃い色のところのみ判読できました。
13 雨乞い祈祷の絵馬
印旛沼周辺には昔から水害が多くあり、そのため水神が各所に多く祀られ、また雨乞いの伝承なども多数みられます。この萱田の飯綱神社にある絵馬はその願いを表したものです。
手前に護摩壇で龍王に向かって祈祷する僧侶と、後方に祈願者である公家風の人物がそれぞれ色彩豊かに描かれています。
「今昔物語集」の中の、日本国中が旱魃(かんばつ)のとき弘法大師が雨乞いのため請雨経の法を行っているうちに空が曇り、雨が降ってきたという話(「弘法大師修請雨経法降雨語」)を題材にしているのかもしれません。
大きさは、縦112センチ、横167センチの大きさです。制作年代や作者は不明ですが、江戸時代後期のものと推定されます。
14 伝・村上綱清の墓石
米本の長福寺にある米本城主・村上綱清の墓と伝えられている五輪塔です。
このことは江戸時代初期に佐倉藩士の磯部昌言が書いた「佐倉風土記」に「村上綱清の墓、米本長福寺に在り。綱清、民部大輔と称す。天文弘治年間(1532~57)米本城主となり、永禄元年(1558)三月十三日自殺す。」とあることからこのような伝承が生まれてきたものと思われます。
米本の長福寺の奥の墓地にありましたが、現在は境内の座禅堂脇に移設されています。
材質は軟砂岩で、高さ145センチあります。地輪部分に銘文が刻まれていますが、材質が柔らかく、崩落しているため判読は難しく、拓本によると曹洞宗の回向文と年号の「慶」と思われる字が読めました。
綱清の死後にその文字が付く最初の年号は、江戸時代初期の慶長(1596~1615)であるため、もしこの五輪塔が綱清のものであるとすれば、死後40年以上たってから、供養のために建てたものかもしれません。
15 長福寺の板碑一括
米本長福寺の山門を入ると、左手に山林があり、板碑はその斜面から出土しました。
年号の判読できるもので最も古いものは文正2年(1467)です。15世紀中頃とは米本城の初期の時代で、当時の武士団を偲ばせるものです。
板碑の形式は武蔵式で、埼玉県を中心に関東地方で多く作られています。材質は緑泥片岩で、種子(しゅじ)はほとんどが阿弥陀仏(キリーク)でした。なかには弥陀三尊のものも2基ありました。
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