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八千代市指定文化財(21~25)

ページID:0004844 更新日:2022年12月12日更新 印刷ページ表示

21 米本稲荷神社本殿

米本稲荷神社本殿1

 米本稲荷神社(米本2424)本殿は庇柱(ひさしばしら)に浮き彫りされた昇り竜と下り竜の彫物を持ち、また本殿の各面にも農作業の風景や子どもたちの遊ぶ姿などを彫り込み庇柱に竜これらの優れた彫刻をもつ社として貴重なものです。
 構造は桁行1間、粱間1間で総ケヤキの1間社流造りです。現在は銅板葺きですが、以前はカヤ葺きであったようです。また、柱から三手先の組物で床を張り出しています。

米本稲荷神社本殿2

​ 確かな創建の資料は有りませんが、明治期に書かれた資料によると、江戸時代中期頃のものと思われます。その後寛政期(1789~1801)と慶応期(1865~1868)に再建されたとされており、慶応期の再建は、安政期(1854~1860)の一連の地震により倒壊した可能性があります。
 慶応期の再建の後に倒壊したため、明治27年に日清戦争の平和祈願のため再建されました。また、大正12年(1923)の関東大震災により基礎が崩れましたが、昭和3年修理されています。現存する建物は明治27年の再建の時のものと推定されますが、棟札などは確認されず、確かなことはわかりません。
 このような庇柱に竜を彫る建築は、近隣では佐倉市の先崎の鷲神社本殿(市指定)、印旛村宗像神社本殿など7棟あり、幕末期の建立のものが多く見られます

22 天保七年米本村絵図

天保七年米本村絵図1

​「天保七年米本村絵図」、は米本の個人のお宅に所蔵されていた、たくさんの古文書の中から見つかったものです。市内の村絵図で現存するものがきわめて少ない中で、この絵図は台地と低地との区別や、畑や林など土地利用に応じた色分けがなされ、江戸時代後期にあたる天保7年(1836年)の米本村の様子を色彩豊かに伝えています。現在は、郷土博物館に収蔵されています。

 注目されることは、現在の八千代市の中心を流れ、市民にとって憩いの場としてとても親しまれている新川が、今から約170年も前からすでに、「新川」と呼ばれていたことです。新川というと人の手の加わった近代的な土木工事によって造られた川というイメージをもちますが、江戸時代後期にはすでに、村人から新川と呼ばれ、親しまれていたことに驚かされます。

【「天保七年米本村絵図」とは】

 絵図は、4枚の和紙を張り合わせて作られ、右下に製作年代や当時の米本村の名主・組頭などの村役人の名前が書かれています。また、左上には色分けした色がなにを表すかの説明も見られます。そして、東を上に向けて米本村全体を描いています。
 絵図に描かれた村には、赤色で示された道に沿って家々が建ち並んでいる様子が分かります。城橋から下宿にかけてまとまりがみられ、神社やお寺もいくつか描かれています。また、町の辻には高札場が設けられていました。青色は山林を表していますが、絵の形からもわかるとおり松林で、米本村の大部分を占めていたようです。中央から東に向かう道の左手下の大きな松林が、現在の米本団地に当たります。

天保七年米本村絵図2
​米本村の中心部​

絵図の描かれる110年前の享保八年(1723年)の「印旛郡米本村差出帳」によると、米本村は当時、常陸から上総へ向かう街道筋にあたり、人や荷物の往来も多く、馬継ぎ場となっていました。人家は115軒あり、お寺は5か寺、神社が7社、お堂が4か所となっています。この絵図に、これらのすべてではないのですが、細かく丹念に描かれています。また、高札場には、忠誠心や親孝行、毒薬、さらにキリシタン禁制に関するものなど3枚、そして鉄砲に関するものが3枚、計6枚の高札が掲げられていたようです。当時の米本村の大部分は佐倉藩領で、絵図の中に見られる「御林」は藩主の直轄林であったようです。​

天保七年米本村絵図3
​新川の川筋

新川は桃色で表されています。この川には2か所に土橋が架けられていました。いまでも残る城橋と平戸橋です。川の中に、薄くて読みにくくなっていますが、「新川」と書かれているのがわかります。
 江戸時代に、印旛沼と江戸湾(現在の東京湾)に流れるそれぞれの川をつなげるための堀割普請が行われました。これは、水害の防止や新田開発などを目的として、享保期と天明期、さらに天保期の3回実施されています。なかでも、今から220年前の天明期の堀割普請は、水運の整備もその目的とされ、船を通すために曲がった川筋をまっすぐにする必要がありました。この絵図の製作年代から、この天明期の普請により、新しく掘り直された川を、新川と呼ぶようになったと考えられます。また、古い川筋を村境としていた名残は後々まで残り、古川と呼んでいたようです。これらの江戸時代の堀割普請は完成しませんでしたが、その後、幾たびも試みられ、昭和になってようやく完成し、新川と花見川が一つの川としてつながりました。​

23 高津のハツカビシャ

高津のハツカビシャ  オビシャは年頭から春先にかけて行われ、天候の順調を願い、平穏な作柄を祈願する農耕儀礼の行事と考えられています。
 「高津のハツカビシャ」は毎年1月20日に高津比め神社(たかつひめじんじゃ※「め」は正しくは「口へんに羊」)で行われ、「甲乙ム」と描かれた的に弓を射ることで知られています。弓射の後、オトウ(御神体)ウケトリが行われ、場所を移して直会(なおらい・神祭の後の酒宴)と続く神事です。
 入れ替えに念仏講の女性たちによって「オビシャの花見」が謡われます。現在は念仏講がなくなってしまったため、当番の庭の女性たちによって謡われます。
 オビシャは、市内各地でもたくさん行われていますが、そのほとんどは宴会のみ残り、その意味さえも忘れられている中で、このように弓射神事、当渡し(とうわたし)、直会といったオビシャ神事の一連の流れが残り、伝承されているものは非常に少なく、「高津新田のカラスビシャ」とともに貴重な行事といえます。

令和4年1月20日の市指定文化財「高津のハツカビシャ」は一般の方のご見学も可能です。見学される場合は、感染対策を十分おこなった上でお越しください。(2022年1月12日更新)。

24 高津新田のカラスビシャ

高津新田のカラスビシャ  オビシャは年頭から春先にかけて行われ、天候の順調を願い、平穏な作柄を祈願する農耕儀礼の行事と考えられています。
 「高津新田のカラスビシャ」は、毎年2月11日に諏訪神社(八千代台西・旧高津新田)で行われ、的にはカラスが描かれています。オトウ(御神体)ワタシでは、大根を半分に切ったものに塩を付け、頭に擦りつけるという独特のことが行われてから、オトウは次の当番の背中に入れて渡され、直会(なおらい・神祭の後の酒宴)が行われます。
 オビシャは、市内各地でもたくさん行われていますが、そのほとんどは宴会のみ残り、その意味さえも忘れられている中で、このように弓射神事、当渡し(とうわたし)、直会といったオビシャ神事の一連の流れが残り、伝承されているものは非常に少なく、「高津のハツカビシャ」とともに貴重な行事といえます。

令和4年2月11日の市指定文化財「高津新田のカラスビシャ」は一般の方のご見学も可能です。見学される場合は、感染対策を十分おこなった上でお越しください。(2022年1月20日更新)。

25 石枕

石枕1

 石枕は、古墳に葬られる人の頭を載せる枕として石で作られたもので、土器等でも作られます。古墳時代中期の古墳から出土する特徴的な副葬品です。千葉県は出土数が多く、特に印旛郡・香取郡に多い傾向が指摘されています。東日本ではやはり石で作られた小型の花状のもの(立花)が頭受部の外側に孔を開け立てられるものがあります。

石枕2

 この石枕の出土地は神野芝山古墳群4号墳で時代は古墳時代中期(西暦400年代頃)、材質は滑石です。出土時に一部損壊されており、立花は失われていますが、それを立てた孔が8か所開けられており、立花があったことが十分想定され、八千代市の古墳時代中期の古墳文化を知る上で貴重な資料です。
 郷土博物館に常設展示されています。

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